2011年1月27日木曜日

ブカレストの冬

 
20101227日の朝、外はうっすらと雪化粧をしていた。この冬の二回目の雪である。初雪は17日にやってきたのだが、その後ぶり返した暖かさですっかり消えてしまっていた。今度の雪は終日続き、翌朝には10cm前後の積雪となった。

カメラを手にして早速外へ。曇り空が続いており、風もないので、今日のブカレストの寒さはそれほどではない。人や車の往来が激しい場所ではもう雪がその姿を消している部分さえもある。周りに比べてより低い場所にはシャーベット状の水溜まりさえできている。昼が近くなってきた今、その程度の寒さである。
 
 

栃の木の枝という枝には雪が積もって、白と黒との文様を作りだしている。そこには、「どんなに細い枝であっても決してないがしろにはしたくない」といった周到な意思さえもが感じられる。雪があった翌日には決まったように披露される光景ではあるのだが、また新たな感動を覚えた。

 



アパートが立ち並ぶ住宅街をしばらく歩いていくと、小学校の前に出た。校庭を取り巻く緑色のフェンスが雪綿帽子をかぶっていた。垂直に立っているそれぞれの角材のてっぺんにほとんど同じ高さに雪が積もっており、上下に波打つように配置されている角材の端部がリズミカルな佇まいを醸し出す。昨晩は風もなく、静かな雪だったにちがいない。


この辺一帯はブカレストでも緑が多い地域のひとつであると言われている。雪がすべてを覆い隠してしまった朝、まだ足跡も何もないこの空き地はあたかも森の中の一部ではないかと言ってもいいような風景を見せていた。これが森の中だったとしたら、うさぎや狐あるいは鹿などの動物たちの活動の跡がしっかりとついているかも知れないのだ・・・
 

そして年が明けて、
2011124
 

今冬4回目の雪。地表の雪は消えてしまっていたのだが、また雪がやってきた。降ったり止んだりの3日間だった。公園へでかけてみた。15センチほどの積雪だ。

この公園には小さな湖があって、そこにはかもめや鴨がたくさん浮かんでいた。パン屑だろうか、餌をまいている人がいる。そして、遠くに4頭の犬の姿が見えた。一人のおじさんの周りを連れだって歩き回っている。4頭も犬を飼っているなんて羨ましい限りだ。それぞれが結構大型である。そのうちの一頭が突然仰向けになって背中を雪に擦りつけはじめた。気持よさそうだ!

子供の赤っぽい衣装も見える。そりを引いた親子連れだ。ふたりにとって楽しい一日となるにちがいない。
 
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今冬一番の冷え込みとなった。ブカレストの辺りでもマイナス15度にまで下がったとの報道。日中でもマイナス5度までに上がっただけ。空気が刺すように冷たい。明日もこんな寒さが続きそうだ。 



モーツアルトの死因はリウマチ熱


[訳者注:この文書は「Rheumatic fever killed Mozart」と題する英文記事の仮訳です。ハリウッド映画「アマデウス」ではモーツルトの死因をウィーンの宮廷で宮廷楽長として名高かったアントニオ・サリエリによる毒殺として取り扱っていますが、映画はあくまでも観客を引き寄せるべくして作られた映画です。この記事の内容はまったく違います。と言うことで、映画とこの記事とを対比しながらお読みいただければと思います。この訳文に疑義が生じましたら、原文の記事をご参照ください。なお、原著者(Franklin Crawford)の承諾を得て、この翻訳を行っています。]

コーネル大学の教授も含めて、医学の専門家や学者らはウオルフガング・アマデウス・モーツルトの死に犯罪行為が絡んでいたのではないかとする説には賛同していない。死因は殺人ではなく、おそらくはリウマチ熱が当時まだ若かった天才音楽家を死に至らしめたものではないかと専門家の立場から考えている。

2000215日発表

[メリーランド州バルチモア市発] 驚くほどの才能に恵まれ、多くの作品を残した作曲家ウオルフガング・アマデウス・モーツルトは今から209年前に35歳の若さで夭折した。死因は不自然な病気ではなく、ごく普通の病気であった。この211日金曜日にバルチモア市で臨床病理に関する第6回年次検討会(CPC)が開催され、病歴がよく知られた事例について職業的な興味を抱く医者やモーツルトを専門に研究する学者らによって構成されたパネルがそう結論したのだ。

リウマチ熱が世界で最も親しまれている作曲家の一人であるモーツルトの命を奪ったのであって、当時の作曲家であり、モーツルトのライバルでもあったとされるアントニオ・サリエリが彼を毒殺したというわけではない、とCPCの検討会へやってきた専門家は語っている。この件に興味を抱く専門家集団にはコーネル大学で音楽の教鞭をとり、モーツルト学者としても著名なニール・ザスロー教授も含まれている。リウマチ熱は血液がストレプトコッカス菌によって感染し発症する免疫系疾患である。今日、抗生物質のお陰でこの病気は非常に稀なものとなっている。しかし、モーツルトの突然の発病とそれに続くあっけない彼の死は例の「Xファイル」に名を連ねるにふさわしく、多くの憶測を許すことになったのは事実である。

「陰謀説は結構立派なフィクションとなるかも知れないが、モーツルトが殺されたとする裏付けがあるかと言えば、そのような歴史的証拠は無い」と、ザスロー教授は言う。同教授はこの金曜日にメリーランド大学医学部とバルチモア市の在郷軍人健康管理部がスポンサーとなって開催した検討会で講演をした。1995年以降、CPCはエドガー・アラン・ポーを始めとしてアレクサンダー大王やルードウィッヒ・ファン・ベートーベン、ジョージ・A・カスター将軍、ペリクレス、等の死因について専門家の立場から詳しい検討を行った。

モーツルトは病に倒れるまでは非常に活発で、多くの成功を収めていた」と、ザスロー教授は説明する。「彼の生涯の最後となる年、彼は大作のオペラを2曲も作曲し、信じられない程多くの演奏活動にでかけていた。そればかりではなく、非常に多忙な交際もこなしていた。」

「一体何がモーツルトを死に至らしめたのかについては確実めいたことは言えないが、リウマチ熱がモーツルトの死因だとする説は前にもあった」と、ザスロー教授は我々に念を押す。211日の講演でザスロー教授は、この作曲家はたぐいまれな才能の持ち主ではあったけれども、皆と同じように自分が作った曲を何とか売るために方々を歩き回り、決して労を惜しまず、非常に意欲的な音楽家であったことを強調し、モーツルトをピーター・パンとしてとらえるような説は誤りだ、と指摘した。神聖な霊感の上昇気流に乗ってでもいるかのように誕生したこの崇高な天才作曲家モーツルトが醸し出すロマンチックな香りとも相俟って、疑問の余地が多い証言や偽造された手紙の文面などが過去200年にもわたって数多くの文人やその分野の権威者らによって繰り返し引用され、無意識のうちに世間に広められたことによりこの天才作曲家について数多くの神話が作りだされていったのではないか、とザスロー教授は説明する。ザスロー教授版の現世的モーツルトの姿はどうかというと、歴史的証拠によれば、疲労困憊に陥ってしまうようなひどい演奏スケジュールではあっても、彼はむしろそれらをすべてこなそうと努力し、作曲を完成するためには平穏で静かな生活を求め、ピアノから離れることはなかった。

この専門家パネルが下したリウマチ熱だとする結論は内科医でカリフォルニア大学デービス校の医学部教授でもあるフェイス・T・フィッツジェラルド博士に拠るところが大きい。フィッツジェラルド博士が行った医学的見地からの究明は、当時のモーツルト家の遺族や侍医らが亡くなったモーツルトについて報告した症状や病歴を詳しく調査することから始まった。ちなみに、同博士の診断はモーツルトの死因について行われた最も新しい診断のひとつである。

ザスロー教授の研究結果は18世紀の医師、エドワルド・グルデナー・フォン・ロベスが下した診断内容と良く一致する。モーツルトが死亡した当時、ウィーン市の保健所で検疫官として勤めていたグルデナー・フォン・ロベスは(モーツルトの死後30年の月日が経ってからの手紙の中でモーツルトの死に立ち会った二人の侍医(手紙が作成された時点ではこれらの医者は既に他界している)と意見を交わした当時の内容を記録している。ザスロー教授の調査によれば、その手紙の中でフォン・ロベスはモーツルトが「リウマチ熱に倒れ」、「脳に沈着物ができた」ことによって死亡したと記述している。モーツルトの義理の妹ソフィー・ハイベルの目撃証言もリウマチ熱の症状をよく示唆している、とザスロー教授はさらに付け加えた。

余りにも若い死は如何なる時代にあってもそれ自体が悲劇であり、モーツルトの死は偉大な彼の才能をこの世から突然奪い去ってしまったがゆえにことさら痛ましいものとなった。下記に示す詳細はひどく陰鬱だととらえられるかも知れないが、彼の死にまつわる不要な混乱や憶測から彼を開放してくれることにはなるだろう。

17911120日、モーツルトは高熱、頭痛、発疹、ならびに、腕や脚の痛みに襲われていた。彼は何時ものように機敏で気がしっかりしてはいたものの、著しく動揺しており、イライラしている様子がうかがわれた。部屋に置いてあるお気に入りのペットのカナリアの鳴き声でさえも「うるさい!」と言って、部屋の外へ移動するように周りの者に頼んだほどだ。イライラはリウマチ熱を示す古典的な症状のひとつである。第二週目、モーツルトは嘔吐や下痢に何度も見舞われ、彼の体はひどくむくみ、膨らんでしまったので、もう衣服は体に合わなくなってしまった。誰かの助けがない限りベッドから起き上がることもできなくなっていた。死を予感し、彼は作曲中の「レクイエム」をどのように完成したいかについて説明し、指示を与えた。病状が進行するにつれてモーツアルトの心臓は衰弱し、体の中には水分が溜まる一方で、彼の体はひどく膨らんだ。まだ若い頃、モーツルトはリウマチ熱を患ったことがある。その発作によって彼の健康状態は当時既に危険な状態に至っていたのではないか、とフィッツジェラルド博士は指摘する。精神錯乱の発作の後、こん睡状態に陥り、モーツルトは1791125日に亡くなった。これは病に倒れてから15日目のことであり、36歳の誕生日を7週間後に控えてのことだった。

この診断そのものは、多分、ハリウッド映画の名監督たちの関心を惹くことにはなり得ないだろう。モーツルトの生涯の最後の二週間を巡っては歴史的にも多くの人たちに計り知れない興味を惹き起し、さまざまな憶測を呼ぶことになったが、ここに述べた内容はそれらを少しでも沈静させることに役立つことになるのではないか。

モーツルトよ、安らかに眠り給え!




 

ブカレストの秋

Nov/01/2010

秋をブカレストで過ごすのは何十年振りだろうか。

ブカレストは平地に囲まれています。したがって、日本の秋のような真っ赤に染まった紅葉はなかなか見られません。ほとんどが黄色系。ルーマニアの中央部に位置しているカルパチア山系を訪れると日本の秋に何ら遜色のない光景を堪能することができるのでしょうが、そういう光景を眼にするのは今後の宿題となります。


 1022日、久しぶりに好天となったので、街へ。

私たちが住んでいるアパートからこの界隈で最も大きな通りへ出るまでの距離は100メートルもない。そこへ出る手前にちょっとした緑地帯があって、そこは小さな公園のような感じになっている。黄色系に染まった木立の下で、ひとりの男性がベンチに座って新聞を広げ、何かを読みふけっている。

この通りは片側3車線で、中央分離帯には路面電車がガタゴトと音をたてながら走っている。この写真でも、木立の向こうにちょうど3両編成の電車が写っていますよね。


  23日、ちょっと足を延ばして、「国民の館」を撮影した。これは例の悪名高い故チャウシェスク大統領の頃の遺産。現在は議会として使われている。1989年の革命の直後には、この壮麗な建物を始めとして、「チャウシェスク大統領の息のかかった建物はすべて破壊するべきだ」といったかなり強硬な意見がたくさんあったらしい。

  しかしながら、結果としては1棟も破壊されることもなく残されている。


   「人民の館」を正面に見て、その直前の広場まで一直線に伸びているウニリ大通りは実に壮大だ。この通りに並ぶ建物は丸みを帯びた外観を特徴としており、「国民の館」の建物やその広場と一体となって、計画しつくされた都市空間を作り出している。




 1029日、まだまだ好天は続く。秋の色は種類の違った樹木へとどんどん伝播して いく。青空を背景にして、おだやかな風にあおられて小刻みにふるえる黄色に染まった葉が眩しい!


 群馬県高崎市に住んでいた頃は、紅葉の季節になると谷川岳の麓に出かけた。一の倉沢を経てさらに奥の方へ。タイミングがすべてではあるのだが、青空と真っ赤な紅葉や黄色に染まったイタヤカエデの葉との組み合わせは人の目には実に刺激的だ。そんな光景を写真に収めることができると、その日はずいぶんと得をしたような気分になって帰宅することができる。自然は偉大な芸術家だ。そして、何時でも惜しげなく勇気を与えてくれる。

  ブカレストでのこの日もそんな一日だったのです。


 はやばやと裸木となった栃の木は路面に見事な幾何学な文様を投げかけていた。日中の日差しはまだ結構強く、寒さを感じるほどではない。

この地が北海道と同緯度に位置している事実を考えると、北海道では住んだことがないとはいえ、本当に厳しい冬が来たとしたら「真冬に外を歩き回るのはかなり大変だろうなあ」などと、今から考えているところだ。



ブカレストへ到着しました!

Nov/20/2010

925日にブカレストに到着。早いもので、もう2カ月近くになります。

今年の日本の夏は暑く、そして、長かった。そんな中を引っ越しのために本やアルバム、CDDVDあるいは衣類を段ボール箱へ詰めたり部屋の掃除をしたりと、様々な作業に明け暮れていたのですが、あの頃の暑さは今や嘘のよう。今、ブカレストは晩秋の気配です。山岳地帯での初雪はとうに報じられており、冬への移行はこれからどんな展開になることでしょうか・・・

924日は前日の雨も止み、ひとつの煩わしさが解決。まあまあの旅行日和となった。高崎から成田への高速バスは予定時刻通りに空港へ到着。オーストリア航空の便は満席ではあったが、特に問題はない。11時間の旅は順調そのもの。

途中のウィーンで1泊。泊まったホテルは「ホテル・アマデウス」、ダウンタウンにある小さなホテルです。でも、すこぶる便利な位置にあります。部屋に荷物を置いて、街へ。



その時のスナップをご紹介します。

通りの後方に見える建物の屋根の色が素敵です。このターコイス色は銅板の緑青でしょうか。

ステファン大聖堂では、今、外壁の大掃除をやっています。中央入口の左側の壁の表面がきれいになって、大分白っぽくなっているのが分かりますよね。入口の上側と右側の壁面はネットで覆われていて、この化粧直しはまだまだ続きそうな気配ですね。


 何時ものことながら、この広場はたくさんの観光客で賑わっている。ウィーンの良さは何と言っても治安の良さにあると言ってもいい。街をぶらついていても身の危険を感じるようなことは全くない(少なくとも、一度も経験していない。気を張って歩き回る必要があるロス・アンジェルスのダウンタウンとは大きな違いだ!)。また、この時間に街をぶらついているのは間違いなく観光客だ。地元の人たちは自分たちの仕事で忙しい時刻だから、この人たちは皆小生と同じく観光客なのだ。この日の夕食はトルコ料理となった。表通りだけではなく裏通りにも食卓を並べているレストランが幾つもあり、あまり混んではいないレストランにしようと思って座ったのがトルコ料理だった。ビールとなす入りのムサカを注文。空腹だったとは言え、このムサカが実に美味しかった!
 
25日、ブカレスト空港へは予定よりも早めに到着した。しかし、預け入れた荷物がなかなか出てこない。出てきたのは最後の最後となった。一時は「荷物が紛失したのでは?」との考えが頭をよぎった程だ。成田空港では預け入れ荷物をブカレストまで通しで預けたので、ウィーンでの翌日の積み替え時に機内の一番奥の方へでも積み込まれてしまったのかも。結果としては、大きな問題に遭遇することもなく、この旅は実に平凡に終わった。
妻のエウジェニアと娘の美樹が出迎えてくれた。

こうして、年金生活者の第二の人生がブカレストで今始まろうとしている処です・・・