2012年5月26日土曜日

4号機使用済み燃料プールの危機的現状


米国政府はなぜ当時の日本政府が設けた区域よりも遥かに広い半径80キロまでの避難区域を設定したのか。
新聞報道では米政府の独自の判断だとのことだったが、当時(2011317日)、私はその理由をまったく理解できないままでいた。米国政府のこの反応は情報不足から来たものだったのか、それとも福島原発の事故がそれ程までに深刻なものになると当初から判断していたからだったのか....
どうも、後者らしい。
米原子力規制委員会によると、住民の被ばく線量が計10ミリシーベルトを上回らないようにコンピューターで避難すべき範囲を計算した結果、半径80キロ以内の避難が妥当との結果になったという。個人的な印象を付け加えると、日本政府の場合とは違ってコンピューターで答えがあっという間に出てきて、それを自国民の安全確保のために用いている。解析能力と決断能力が見て取れる。また、報道時の透明性がいい。
最近読んだ本(アーニーガンダーセン著、「福島第一原発 - 真相と展望」(注1))がひとつの答を示してくれた。その本によると大体こうだ。

<引用開始>
テレビに映し出された3号機の爆発は確かに壮絶であった。しかしながら、最初から最後まで最大の懸念材料は4号機の使用済み核燃料プールだった。
1997年に行われたブルックヘヴン研究所の報告によると、もしもこの4号機の使用済み燃料プールで火災が起これば、癌による死亡件数が最大で138千件に達する可能性があるとの指摘がされていた。
4号機の燃料プールには炉心数個分に相当する量の使用済み核燃料が入っていた。そもそもマークI型の原子炉の使用済み燃料プールは放射能に対する遮蔽を設けてはいない。つまり、格納容器も圧力容器もなく、プールに格納された使用済み燃料はむき出しのままだ。
米国の原子力規制委員会はこのプールにひびが入ったと聞いていた。もし冷却水の水位が下がり、給水ができない状態が続いたとすると、最後には全ての水が漏れて、蒸発し、使用済み燃料はどんどんと温度が上昇する。最終的には金属自体が発火する。こうなると、放水すると事態はさらに悪化する。炉心数個分もの核燃料が大気中で燃えるという世にも恐ろしい状況となる。
このような状況は科学にとっては未知の世界である。ほぼ完全に近い炉心が何個分も入った使用済み核燃料プールで起きる火災など誰も研究すらしたことがない。事実上燃えるままに任せるしかない....
4号機の使用済み燃料プールは今でも日本を物理的に分断する力を秘めている。
<引用終了> 
 

この4号機の使用済み燃料の危険性については、動画サイト(YouTube)でも数多くがこれを扱っている。京大原子炉実験所の小出裕章助教授は「4号機燃料プールが崩壊すれば日本はおしまいです」(2と言う。それ程大きな危険性を秘めているのだ。 

また、ドイツのテレビ番組ZDFもこの3月に「4号機燃料プールが崩壊すれば日本の終わりを意味する。」と報道した(3) 

ロシアの環境専門家、ウラジミールスリヴャック氏(4)は、4号機の使用済み燃料プールには1986年のチュルノブイリ原発の事故の際に大気中に排出された放射性セシウムの量に比べて10倍もの量が蓄えられていると指摘している。使用済み核燃料を巻き込んだ事故に発展すると超甚大な災害となる。この懸念は4号機の燃料プールだけに留まるわけではない。4号機の建て屋が崩壊し、プールが干上がり、燃料が溶け出し、金属火災に発展したら手がつけられない。そうなったら、隣接する1号機から6号機も含めた福島第一原発全体の大事故へと発展する可能性がある。第一原発全体では、使用済み核燃料の脅威は上記のチェルノブイリ原発から排出された放射性セシウム量の85倍にも達すると推測されている。 

米国の上院議員の一人が最近行動を起こした。米上院エネルギー委員会の有力メンバー、ロン・ワイデン議員だ(5)。ワイデン氏は藤崎一郎駐米大使にあてた416日付の書簡で、福島第一原発の原子炉建屋が再び地震や津波に見舞われれば、崩壊し、「当初事故よりも大規模な放射性物質の放出」が起こる恐れがあると警鐘を鳴らした。 

何らかの対策が完了するまでに何年かかるのか予測できないが、東電発表の中長期ロードマップ(6)によると、東電は全号機の使用済み燃料プール内の燃料の取り出しは2014年に着手して、その終了はそれから10年以内としている。 

つまり、使用済み燃料の取り出しが完了する前に巨大な余震が福島第一原発を再度襲ったら、日米ロの専門家が指摘しているように、日本はお終いだ。3千万を超す人口を抱える首都圏も含めて、東日本は広大な荒地と化すだろう。 

昨年3月の東関東大地震は千年に一度の巨大地震だったと言われている。そして、大規模な余震の可能性についてはさまざまな研究が発表されている。京都大防災研究所の遠田晋次准教授の研究(7)によると、東日本大震災の余震は福島、茨城県境で少なくとも今後100年以上続くとのことだ。 

日本は時限爆弾を抱え込んでしまった。今後10年、20年以内にM8とかの巨大な余震が起こらないことを祈るしかない。 

また、南海トラフに震源を持つ南海大地震や大津波の可能性も報じられている。日本列島は地震の巣である。これは誰でも知っていることだ。南海大地震が昨年起こった東関東大地震よりも小さいという保証はまったくない。仮に一桁小さいとしても、その破壊力は絶大だ。浜岡原発は大被害を被るのではないか。ここでも、大量の使用済み核燃料が大問題となるだろう。 

昔、杞の国の人たちは天が落ちてくるかもしれないと言って国全体がその心配におののいていたとのことだ。そこから「杞憂」という言葉が生まれた。この言葉は起こりえない事をあれこれと心配することを指すものだ。 

しかし、地震は必ず起きる。杞憂とは言えない。過去に起きた最大級の地震は繰り返してやって来る。過去に起きた最大級の津波もまた繰り返してやって来る。これは日本という国にとっては避けて通れない現実なのだ。この現実は昨年の3月に嫌と言うほど思い知らされた。この現実を直視しながら、ひとつひとつの課題に取り組んでいかなければならない。 

原発の安全神話が完全に崩壊した今、我々日本人は将来を担う子供たちのために何を選択しなければならないかは誰にとっても明白だと信じている。 

野田政権は大飯原発の再稼動を進めようとしている。上記の巨大な時限爆弾にさらに大飯原発をも上乗せようとしている。処分方法が技術的にも決まってはいないのに、使用済み燃料をさらに増やす結果となる。これでは将来の子供たちの幸せを担保することはできない。 

この頃、このような思いがいやましに強まっている。



出典:
注1:「福島第一原発 - 真相と展望」、アーニーガンダーセン著、岡崎玲子訳、集英社新書(20123月)
注2:小出裕章:4号機燃料プールが崩壊すれば日本は「おしまい」です。
http://www.youtube.com/watch?v=CezLuBZqd8U (20123)
3[ドイツZDF]福島第一原発4号機 燃料プール 崩壊なら、日本は終わり。(201239) http://youtu.be/UtqF4PHPPlg

4Concerns mount over the growing threat from Fukushima’s spent fuel – will the experts’ warning call be heard?: By Vladimir Slivyak (May/06/2012)
5:「福島第1原発は非常に危険 米議員が燃料棒について警鐘」(2012418日)
6:「東京電力(株)福島第一原子力発電所1~4号機の廃止措置等に向けた中長期ロードマップ(概要版)」(20111221)

7:「東日本大震災余震100年以上 京大准教授発表へ」、毎日新聞2012515日)


 


2012年5月6日日曜日

ブラショフへの旅


昨年、高校を卒業してから50年となった。我が同級会への出席の歴史を見ると、小生は最も勤怠成績が悪い仲間の一人ではないかと確信している。そんな中でも、日本から同級生が4人もブカレストへやってくることになった。
その様子をこのブログに書き留めておきたい。

ブカレストでの在住を始めた小生にとって遥々と日本からやって来る同級生のために出来ることはと言えば、せいぜいホテルの手配とか、何か適切なツアーを物色することだ。ツアー業者を探し、ツアーの詳細を検討してみた。今回、日程が許すのは移動日を除くと3日間だけ。ブカレストの市内観光とルーマニア最大の観光都市、ブラショフへの1泊2日の旅をすることにした。

4月下旬のある日
彼らはパリから入ってきた。TさんとKさんが先ず出てきた。それからSさんとMさん。皆、元気そう。

ブカレストのヘンリ·コアンダ国際空港には部外者にとってはちょっと理解しにくい点がある。それはタクシーの運用の仕方だ。

ブカレストの人たちが空港へ向かうには自家用車かタクシーで出かけることになる。地下鉄はまだ計画段階のままだ。出発便の場合は問題ないのだが、到着便の出迎えはいささか不便だ。
市内からタクシーで出向かえに行くとする。空港では、ブカレスト市内からのタクシーは到着ロビーへ横付けにすることが許されてはいない。日本人にはこんなことが想像できるだろうか。到着ロビー前で客待ちすることができるタクシーは限られており、特別の許可が必要。この特別許可が一般のタクシーよりもずっと高いタクシー料金を許している。つまり、既得権を護ろうとするタクシーのグループとそれ以外のグループとの間には大きな差別が存在する。ブカレストの市民にとっては不便極まりない。外国からの観光客にとっても然りだ。この二重構造は何時まで続くのだろうか。

到着ロビーから出発ロビーまでスーツケースをゴロゴロと引っ張ったり押したりしながら歩かなければならない。その不便さの背景について説明している間に、出発ロビー側に到着した。不便極まりないと言ったが、まあ、その程度の距離だ。
出発ロビーの外へ出て、携帯電話で知り合いのタクシーの運転手君と連絡を取ると、2分位で彼ともう1台のタクシーがロビー正面にやってきた。5人と4個の大きなスーツケースは2台のタクシーに分乗し、市内のホテルへ向かった。折りしも春爛漫である。

<ブカレスト中心部のロータリー>

2日目は市内観光
この日も好天だった。プロのガイドが付いて4時間半。この市内観光で最も圧巻だったのは、かの悪名高い故チャウシェスク大統領が建てた「人民の館」だ。現在は国会を開催する場となっている。政府の建物としては全世界でもこの建物がアメリカのペンタゴンに次いで二番目に大きいという。大きさだけではなく、内部もまた見物だ。床や壁ならびに柱はすべて大理石、どでかい絨毯、何トンもある大シャンデリア、等。ガイド嬢の説明によると、建築材料はすべて国内調達で済ませたという。この建物は20代の女性の設計者がデザインしたものだそうだ。これは想像もしなかった。「20代の設計者だからこそ、何の制約も無しにこのような建物を設計することができたのではないか...」とT君が言ったが、当を得ているような気がする。
また、この「人民の館」だけではなくて、この建物から東へ真っ直ぐに伸びるウニーリ大通りに面する建物群も同時期に建設されたものだ。人民の館へは2万人の労働者が投入され、昼夜敢行の工事だったという。独裁者だけが持つ膨大な権力が遺憾なく発揮されたということだ。
独裁者にはさまざまな負の面がつきまとうものだが、ブカレストの街を見ると評価すべき点もあると言えるのではないか。仮にこの国がチャウシェスクによる独裁国家を通過しなかったとしたら、これだけ大規模な居住空間を提供するには、多分、何倍もの長い年月を費やすことになったのではないだろうか。あるいは、まったく実現できなかったかも知れない。
「スーパーサウルス·チャウシェスクス」とでも呼びたくなるような、このとてつもなく大きな建物は、少なくとも、政治と国民の幸福との間の関連性を考える時には恰好の材料だ。様々な意見がある筈だ。

<国民の館、あるいは、国会宮殿>

3日目はブラショフへ
その途上、ワイナリーを2箇所で見学。ルーマニア旅行を語るとき、ルーマニア·ワインを語らずに素通りする訳にはいかない。一つ目のワイナリーはプラホヴァ(Prahova)平野の一画に位置しているUrlateanu ManorManorとは荘園の意)。赤や白を試飲。周りは葡萄園だ。この近辺や離れた場所にたくさんの葡萄園を所有しており、合計で400町歩とのこと。
ふたつ目はというとアズーガ(Azuga)の街の中。「どうして街の中でワイナリーなの?」という素朴な疑問が皆の心を過ぎったが、その答えは簡単に見つかった。このワイナリー(Rhein Cellar)はスパークリング·ワインが専門。ここでは今でも瓶の中で二次発酵をさせる伝統的な手法を用いているという。かってはルーマニア国王の御用達という輝かしい歴史さえも持っている。現代的なエアコンを使わないで、今でも1メートル半もある貯蔵庫の壁や自然換気を駆使し、長い歴史の中でその有効性が立証された手法を用いて、冬でも5Cを下回ることはなく、夏も10Cを上回ることはないとのことだ。エアコン無しでこれだけの温度管理ができるとは驚きだ。ここは山にも近く、自然のままで伝統的なスパークリング·ワインを製造することができる貴重な場所なのだ。
今年の夏も日本では節電だ、省エネだと大騒ぎになることだろうが、このワイナリーの姿勢には頭が下がる。発想の転換しだいで、かなりのことを達成することが出来る。そんな思いで説明を聞いていた。
ブラショフ(Brasov)という街は、この地域の他の幾つかの街と共に歴史的にはふたつの文化圏あるいは政治勢力(キリスト教世界とイスラム世界)の間に挟まれた境目に位置していたことから、その軍事的重要性が中世の王侯らによって認識され、重要な役目を担ってきた。(注:当初の侵入者はクマン人、あるいは、キプチャク人と呼ばれ、現在のモルドヴァ共和国からカザフスタンにまたがる広大な草原地帯を支配していた。彼らの勢力圏はハンガリー帝国や東ローマ帝国と接していた。しかし、後に、蒙古軍によって滅ぼされた。) この街の建設は12世紀以降トランシルヴァニア地方へ移住したドイツ人(主として商人や手工業に従事する職人たち)による貢献が大きかったといわれる。当初、ブラショフはラテン語で王冠を意味するコロナ(Corona)と呼ばれていた。後に、ドイツ語ではクロンシュタット(Kronstadt)と呼ばれた。
クマン人による侵入の後、キリスト教世界は蒙古軍やオスマン帝国の脅威に何度もさらされた。16世紀から17世紀にかけてウィーンは何度も包囲されたことで有名だ。このトランシルヴァニア地方はそういった国外からの脅威と戦う最前線にあった。地理的な要衝には石造りの砦が築かれ、地域社会の中心である教会は城砦化されていった。
<ブラショフの中央広場に面する建物。
屋根に明り取りの窓をつけた建物が今回泊まった小さなホテル>

何と言っても「黒の教会」が有名だ。他の多くの教会に比べると、抜きんでて大きい。その規模たるやウィーンのステファン大聖堂にも匹敵するような感じがする。ガイド氏に質問してみた。この教会はカソリック世界が東方のオーソドックス世界に対してその威容を誇るために建設されたもので、宗教·政治的なショウ·ウィンドウだったとのこと。教科書には見られないような、分かりやすい説明だった。
今回宿泊した中央広場に面した小さなホテルは1477年創業とのこと。街を歩くと、1360年創業というレストランも目に付いた。当時、遠くからやって来た商人たちや腕を磨くためにヨーロッパ各国を歩き回った職人たちもこの石畳の広場を歩いたことだろう。さまざまな外国語が飛び交っていたことだろう。時には山から吹き降ろす冷たい風にさらされ続け、窓辺からこぼれてくる暖炉の明るさにいくばくかの安らぎを覚えたに違いない。あるいは、夜気の冷たさを一層感じさせられたかも知れない。また、時には強い陽射しに苦しみ、思わず樹陰を求めて小休止せざるを得なかったかも。
旅は想像力をかきたてさせ、人を饒舌にさせる。
<衛兵の行進。背景には黒の教会>

初めてルーマニアへやってきた同級生に一度は味わって欲しいものがあった。それは「サルマーレ(Sarmale)」だ。日本では「ロールキャベツ」に相当するが、当地で作られるサルマーレの味は殆どの日本人には想像することが出来ないだろうと思う。何時間も煮込んであって、キャベツはすっかり柔らか。口にほうばると内部の肉汁がジュッと出て来る。何個でも食べたくなるほど、食欲をそそってくれる。
事前にざっと調べた結果、この近辺では広場に面するふたつのレストランがサルマーレを用意している。我々5人は比較的空いている方のレストランに席をとった。皆、ビールで乾杯。街を歩き回り、外の空気に触れていたせいか、冷えたビールが実に心地よい。


<サルマーレ>

10代と思われるジプシーの少年がしつこく物乞いにやってきた。すると、レストランの給仕が追い払う。少年はしばらくしてまたやって来る。また、追い払われる。ルーマニアやブルガリアでは社会の底辺にこういったジプシーたちがたくさんいる。これが現実なのだ。
<賑わうブラショフのオールド·タウン>

4日目は古城めぐり
4日目にはプロのガイド(英語とスペイン語)の外に日本語を話す通訳嬢に来て貰った。地元のツアー会社にお願いしておいたのだ。岐阜に7年も住んでいたそうだ。ガイドが説明するブラショフの歴史を通訳してくれた。まだまったくの素人である。彼女が使う日本語は日常語であって、本を読んで正式に学んだものではない。だから、彼女にとっては歴史や文化関連の術語を操ることはいささか難しそうだった。しかし、内容は十分に伝わってくる。ルーマニアへ戻ってから日本語を使う機会がめっきりと減ってしまった今、日本で覚えた言葉を忘れないようにあらゆる手をつくしたい、と彼女は言っていた。
この日の目玉は何と言ってもブラン(Bran)城とペレシュ(Peles)城だ。
ドラキュラは史実ではなく、アイルランドの小説家による創作である。ブラン城には小説「ドラキュラ」のモデルであったとされるヴラド·ペシュの父親が居住していたと言われ、必ずしもヴラド·ペシュ自身がここに居住していた訳ではないらしい。ヴラド·ペシュの治世下では、罪人に対して串刺しの刑やさまざまな過酷な仕打ちが実行されたことから、小説の中の主人公「ドラキュラ」のモデルになったと言われている。ヴラド·ペシュとドラキュラとの関連はそれだけだ。
ブランは隣のアルジェシュ(Arges)県のルーカル(Rucar)という小さな町へ通じる街道筋の東側の入り口に位置している。当時は通商の要衝であった。城の上から見下ろすと、一本の道路がこちらへ向かって来ており、要衝たる所以がひと目で理解できる。このブラン城は1200年代に石造りの砦として構築されたという。日本では武家政権による統治が本格化した鎌倉時代の頃のことだ。
<ブラン城>
ペレシュ城は1875年に建設された。かなり新しい城だ。当時のルーマニア国王カロル1世が夏の宮殿としてシナイア(Sinaia)に建設した。外観も優美で、実に見栄えのする姿だ。内部の見学では国王が贅をこらして各国から収集した膨大な武器のコレクションを見ることができる。家具類は胡桃の木で作られている。内装品や装飾品には大理石がふんだんに使われている。寄木細工で作られた風景画などは油絵のようにしか見えない。実に精巧にできている。
ガイド氏に言わせると、このペレシュ城はヨーロッパ全土でも五本の指に入るとのことだ。デズニー·ランドでは城の風景が有名だが、あの城のモデルはドイツのノイシュヴァンシュタイン城だ。外観だけではなくて内部の陳列品や装飾品を含めて総合的に比較すると、このペレシュ城の方が優れているというのが彼の持論だ。愛国心がちょっぴり顔を出しているようだが、ガイド氏の言いたいことは実感として良く理解できる。
<ペレシュ城>
このシナイアでは思いがけない発見があった。車道の直ぐそばには林がひろがり、急斜面が続いている。そんな中に背丈が20センチ程にも伸びた「蕗のとう」がたくさん見つかったのだ。ルーマニアでは春の野草としてはイラクサや行者ニンニクが食材として出回る。しかし、蕗のとうは見たことがなかった。北信州で育った小生にとっては気分を高揚させる大発見だ。
5日目の早朝
皆はパリへと向かった。
こうして、高校時代の同級生5人によるルーマニア観光旅行は駆け足で終わりを告げた。
今は写真を開くと、ホテルの屋根裏部屋で聴こえた15分毎に鳴る教会の鐘の音や中央広場のざわめき、店舗風景、等、さまざまな情景が思い起こされる。今回の旅行での経験は個人的なレベルではそれぞれ違った形で消化され、敷衍され、醸成されていくことだろう。1年後あるいは5年後に、ひとつだけでもいい、何らかの共通の思い出を語り合うことができたら嬉しいと思う。
ブカレストにまでやって来てくれた同級生に乾杯したい!