2013年12月18日水曜日

尖閣諸島は戦争をする価値があるのか


1214日のInformation Clearing Houseからの配信記事の中でもっとも注意を引いたのはこの記事[1]の表題だった。端的に言えば、「尖閣諸島は日本のために中国と戦争をしてまで守るほどの価値があるのか。いや、ないだろう!」というのがこの著者、パット・ブキャナンの見方だ。これはあくまでも米国としてはどうしたいのかという問題である。
さっそく、その内容を覗いてみよう。その記事を仮訳し、下記に段下げして示す。
1960年に締結された日米安全保障条約の下では、日本の施政権下にある領土が武力攻撃を受けた際には、米国は自国の平和と安全が脅威を受けたものと見なしてそれに対処しなければならない。この方針は北京政府もその領有を主張している尖閣諸島をも網羅することになろう」と、著者は15年前の「A Republic Not an Empire」と題した書物で指摘した。
そして、あれから15年が経過しようとしている。米国は、53年も前の条約に制約されて、 今、東シナ海の小さな島々をめぐる日中間の争いの真っただ中に置かれている。
この尖閣諸島をめぐる領土紛争では、双方の国の軍艦や軍用機が島の上空や周辺を互いに巡回しており、撃ち合いが始まる可能性がある。ひとたびそのような事態が発生すると、米国はその渦中に放り込まれるだろう。

しかしながら、どうして米国はこれらの島に関与するのか?

かって日本を防衛する対象であったソ連のニキータ・フルシチョフや共産主義独裁者であった中国の毛沢東はとうの昔に亡くなっており、今はいない。

では、何故、今もなおわれわれは日本の本土を防衛するだけではなく、あの小さな島々さえも防衛しなければならないのか。この条約はかってはトルーマンやアイゼンハワーの時代に我が国としては戦争さえも辞さないと覚悟させたものだ。しかし、その存在理由が無くなってしまったにもかかわらず、なぜ今もなお解消されずに残っているのか。

「政治の舞台で起こるもっとも一般的な間違いは死に体同然の政策の亡骸にいつまでも執着していることだ」という言葉があるが、これはサリスベリー卿の言である。このことをより真実味をもって体現しているのが21世紀の米国ということになる。
何故なのかは分からないが、われわれは手放すことができないでいる。冷戦時代の英雄的な役割に余りにも深入りしていたので、世界はまったく変わってしまっているにもかかわらず、かっての役割を捨てられないままでいるかのようだ。
中国が尖閣諸島(中国語では釣魚)を含む防空識別圏を宣言した後、韓国も自国の防空識別圏を宣言した。この韓国の防空識別圏は中国や日本のそれと一部分が重なってくる。
韓国も中国との間で領土紛争を抱えている。それは黄海にある暗礁で「離於島」と呼ばれ、中国語では「蘇岩礁」と名付けられている。ソウル政府はこの暗礁に海事研究ステーションを建設した。この施設の本当の価値は岩礁を取り巻く海底にある石油や天然ガスである。
北京とソウルがそれぞれ主張する主権が衝突すると、これは米国にとっても問題となる。1953年の相互安全保障条約の下で、韓国領土に対する攻撃は「米国の平和と安全に対する脅威」として見なされるからだ。
今までのところ、韓国の防空識別圏に対する中国の反応は鈍い。北京政府は日本に焦点を合わせているからだ。
しかし、韓国は日本海に浮かぶ島をめぐって日本政府と長い紛争状態にある。韓国ではこの島を独島と呼び、日本では竹島と呼んでいる。 
ここに見る状況は、中国と日本および韓国のみっつの防空識別圏が互いに重なり合っていること、ならびに、日中間、日韓間、ならびに、中韓間にあるみっつの領土問題である。
みっつの国はそれぞれが識別圏を設定し、その領域へ軍用機を飛ばし、他国の軍用機の侵入を排除すると主張している。
米国はこれらの国々に対する統括権はなく、それぞれの当事国では新政権が発足したばかりで、何れもが国家主義的傾向を強めている。
そして、今週はより不吉な暗雲が現れた。
北朝鮮の30歳の指導者、金正恩は党員や軍人の粛清を行っているが、ついに、自分の叔父に当たり、指南役でもあった政権内では二番目に権力を持っていると見られていた張成を汚職の理由で追放した。[訳注;原文では「処刑した」とは言ってはいない。原稿はそれ以前に書かれたものであろうか。]
金は張の配下にあったふたりの側近を処刑したとも報道されている。さらには、韓国との西部国境に向けて艦船や航空機を集結させている。この地は以前南北間で衝突が起こった場所だ。
金は4回目の核実験を行うかも知れない。
南北間で衝突が起こると、朝鮮戦争が終わってから60年が経過したとは言え、即座に、米国が巻き込まれる。米国は今もなお28,500人の将兵を韓国に駐留させており、数千の米兵が非武装地帯に配備されている。
忘れてはいけないのでさらに追加すると、フィリピンとの1951年の安全保障条約に基づいて、有事の際には米国はフィリピンの島々を防衛することになる。マニラも、また、南シナ海にあるミスチーフ環礁やスカボロー礁についてその領有権を主張する中国との間で紛争状態にある。
マニラや東京の政府と締結した米国の安全保障条約はもはや存在しない当時の中国・ソ連のブロックから両国を防衛するために設けられたものだ。
ソウル政府との米国の条約は3年間の戦争で韓国がすっかり破壊され、生存に必要なものがまったく無くなった当時に締結されたものである。今日、韓国の人口は2倍にもなり、北朝鮮の経済に比べて40倍もの規模になっている。米軍はどうして今もなお駐留しているのか。
米国の政党はいづれもこれらの戦争の請負契約を見直そうとする素振りさえも見せない。50年、60年にもなるこれらの条約のどれかが、何時の日にか、米国を全面戦争ではないにしても何らかの軍事衝突の場に引きずり込むことになるかも知れない。
今日の米国の対外政策は米国の重大利益に根ざしているとはとても言えない。むしろ、それは冷戦時代への郷愁に根ざしているかのようだ。もう半世紀前にもなるが、デイーン・アチソンが英国人について言った言葉があるが、その言葉は今やわれわれ自身について表現するものとなった。
「米国人は帝国を失ってしまい、自分たちの新しい役割をまだ見出してはいない。」

パトリックJ.ブキャナンは"Suicide of a Superpower: Will America Survive to 2025?"の著者である。パトリック・ブキャナンに関してさらに知りたい方やCreatorsに所属する他の書き手や漫画家の作品を見たい方はCreatorsのウェッブページ、
www.creators.com へアクセスしてください。

ここでパット・ブキャナンの記事の引用は終わる。
冷戦の頃に設定された防共協定や安全保障条約はソ連の崩壊によって意味を成さなくなったことは事実だ。政治的な国際環境はすっかり変貌した。それでもなお、少なくとも日本においては、日米安保条約の温存にかける政府や外務省の執着は大変なものだ。米国では今さまざまな議論がされているようだ。この10月には財政がひっ迫し連邦政府の一部の職員、80万人が無給で自宅待機をさせられたばかりである。この冷戦の申し子をもう引退させようではないかという議論が米国内部から沸き起こったとしても決して不思議ではない。
 

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元ジャーナリストの古森義久氏は、『「米軍は尖閣を守るな」という本音  価値のない島のためになぜ中国軍と戦闘するのか?』との表題を持った興味深いブログ[2]を掲載している。
海軍分析センターの専門家、マイケル・マクデビット氏は米国議会の政策諮問機関「米中経済安保調査委員会」が今年の44日に開催した「東シナ海と南シナ海での中国の海洋紛争」と題する公聴会で証人のひとりとして意見を述べた。同氏は海軍を退役した軍人であるが、今はシンクタンクのひとつ海軍分析センターでアジア戦略にかかわる仕事をしている。
古森義久氏のブログの一部を下記に転載させていただこう。

...日本の安倍晋三首相が2月の訪米の際、質疑応答で日本が尖閣を防衛すると言明しました。『私たちの意図は、米国にあれをしてほしい、これをしてほしいと頼むことはせず、まず自分たちで自国の領土を現在も将来も守るつもりだ』という意味の答えを述べたのです。
私はこれこそホワイトハウスが明確にすべきメッセージだと思います。日本が尖閣防衛の主導を果たす。米国は有事には偵察、兵站、技術助言など基本的に必要な後方支援を提供すればよい。米国はこの無人の島を巡って中国人民解放軍との直接の戦闘に入ることを避けるべきなのです。尖閣諸島はもともと住んでいる住民もいない。戦略的な価値も少ない。本来、それほど価値のある島ではないのです」
マクデビット氏の提案の核心は上記の部分である。尖閣諸島の防衛だけのために米国は中国と戦うな、と提言しているのだ。尖閣にはそれほどの価値がないというのである。この提案は明らかにクリントン国務長官の言明に背反する新政策案ということになる。
だが一個人の提案とはいえ、米海軍の第一線で長年、活動し、国防総省の中枢でもアジア戦略に関わってきた専門家の言である。米国内部に潜在する一定の意見の反映だと言えよう。
日本の本土が攻撃された場合だけ中国軍と戦闘

同氏の証言はさらに続いた。
「米国が尖閣防衛で日本にその主導を求めることは、米国の同盟相手としての信頼性を傷つけ、中国へのその対応政策への信用をも落とすことになるか。それはあり得るでしょう。しかし現実には中国の影に生きる諸国にとって、中国の『朝貢国』になりたくない限りは米国に頼る以外に現実的な手段はないのです。だから米国は同盟諸国に対し、米国の人命と資産を中国との直接の戦闘で犠牲にすることは中国の露骨な侵略行為への反撃にのみ限られる、ということを強調する必要があります。日本の場合、それは日本本土への侵略行動に対してです」...
このマクデビット氏の提言は、無人島の防衛のために米軍は血を流すな、血を流すのは人々が住んでいる本土防衛の時だけだとして、明快に一線を引こうとしている。果たしてこの提言が近い将来米国政府の政策として採用されるかどうかは分からない。しかしながら、戦略的に物事を考えようとする米国の政策決定者にはこの提言は興味深く、検討に値すると受けとめられるかもしれない。
古森義久氏が引用した米国議会の公聴会の記録はインターネットで入手可能だ[3]
 

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東アジアでは米国がもっとも警戒していた紛争地域は伝統的には台湾海峡である。しかしながら、台湾の馬九英政権による中国との経済関係の深化によって、台湾海峡の緊張は大きく和らいだ。今や台湾と中国間の直行便は週616便にもなって、ひとびとの往来が激しくなり、年間累計利用客数は3000万人にもなるという。多くの中国人観光客が台湾を訪れている。
2012年以降、東アジアで最も緊張感が高まっている地域は尖閣諸島周辺に取って代った。これを受けて、人々の関心事は「もし日中が開戦したらどういう結果になるんだろう」という点だ。
専門家の分析も報告されている。そのひとつに、昨年の8月、米国の海軍大学で戦略を専門とする教授が専門的な立場から意見を述べている記事がある[4]
その中で、私が興味深く感じたのは、「武器というものは実際に使ってみないと、宣伝文句通りの性能があるのかどうかは分からず、ほとんどの場合はブラックボックス同然だ…。」 その道の専門家が言う言葉として面白いと思った。そういう意味では、海上自衛隊が所有するイージス艦は果たして能書き通りの威力を発揮するのか、また、潜水艦については喧伝されているような世界でもトップレベルの静粛さで航行し、敵艦をより早く探知することができるのかが明らかにされる。
この記事を仮訳し、皆さんと共有したいと思う。仮訳部分は段下げをして下記に示す。
ウオータールーの戦いに関してウェリントン卿は連合軍の勝利を「生涯でもっとも大接戦となった出来事だ」とその時の状況を描写したが、もしも尖閣諸島をめぐり、あるいは、北東アジアの海域で日中両国の海軍が交戦した場合、このウェリントン卿の描写そのものがわれわれの目前に現れることになりそうだ。
日本の海上保安庁が紛争の的となっている島の沖合で漁船を衝突させてきた中国人の漁師を逮捕した2010年よりも前は、この種の海戦は手が届きそうにもないほど可能性は低かったものだ。今や、その可能性が高まっている。8月の中旬にこの島へ上陸した中国人の活動家を日本側が拘留し本国へ送還した際、タカ派として知られている中国の少将、援は釣魚島(尖閣諸島)を防衛するために釣魚島へ船を100艘送り込むよう求めた。820日に発行された国家主義的な新聞、環球時報のOp-Edでは「日本はこれらの行動に対して報いを受けることになる。その結果は予想を遥かに超えたものとなろう」との警告を発した。これは単なる見せかけのものではなく、それ以上のものである。7月には、中国の東シナ海艦隊はこれらの島々に対する水陸両用の攻撃について模擬演習を実施した。明らかに、中国の指導者たちは不測の事態を考えようとしている。そして、通りを埋め尽くしたデモの集団は日本製の車を壊したり、寿司レストランを襲ったりしている。一般市民もデモの参加者を支援しているのかも知れない。
太平洋の二つの巨人国家、中国と日本がこのありそうもない戦いを始めたとしたら、果たしてどちらが勝つのだろうか?
現代の日本のイメージとしては軍事的には直ぐに負けてしまうかのように見えるが、海戦では中国に対して大敗北に終わることはないだろう。日本の「平和」憲法は「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」としているが、日本の海上自衛隊は、第二次世界大戦以降、装備面ではいくつかの優れた分野(たとえば、潜水艦作戦)を構築してきた。そして、日本の水兵はその職業的な練度では優秀なことで知られている。もし司令官が兵員や物的資源ならびに地理的な利点を上手に扱いさえすれば、東京政府は中国との海戦を接戦に持ち込み、多分、勝者となるだろう。
ライバル同士であるこれらのふたつの国の間で起こった過去の海戦は今日の尖閣諸島紛争のお膳立てとなる。1894年から1895年にかけての日清戦争では、艦隊同士の衝突が起こり、その日の午後にはアジアにおける中国を中心としていた秩序は完全に覆されてしまった。日本帝国海軍は、明治維新以降、輸入した船体や装備品を急速に寄せ集め、物量的にはかなり上回っていた中国の北洋艦隊を駆逐した。18949月の鴨緑江の戦いでは艦船の操縦や砲術に長け、戦意がより高い海軍の勝利となった。
日本はもはや新たに登場する強国というわけではないが、海上自衛隊は優秀な隊員をその伝統としている。もし鴨緑江の戦いのような状況が再び起こるとするならば、日本海軍はどのように中国海軍に対応するのだろうか?これは明らかにあり得ないシナリオだ。北京政府が局地戦に留めたいとする老練な外交官として振る舞い、外交的に日本を孤立させることに成功しない限り、あるいは、日本が馬鹿げた外交によって自分自身を孤立無援にしない限り、中国が日本に対して直接的に戦争を仕掛けるという筋書きは非常に疑わしい。逆の場合には戦争が起こり、米国は多分日本側の戦闘員として戦争に巻き込まれることだろう。
戦争は政治的行為である ー 「武器を使う政治」とはアルフレッド・セイヤー・マハンが言った言葉 - と言われるが、ここでは政治を抜きにして、単に軍事的な観点から中国と日本との間の海戦の行方を見てみよう。数値の上では競争にもならない。日本は主要な艦船を48艘所有している。これらは、自分たちも敵の攻撃を受けるが、敵の中心艦隊を叩くよう設計されている。海上自衛隊は、ヘリコプター搭載駆逐艦または軽空母、米海軍の最前線の艦艇に装備される最新鋭のイージス戦闘システムや組み合わせレーダー、コンピュータ、火器統御システム、等を装備し、誘導ミサイルを搭載した駆逐艦、ならびに、小型駆逐艦やフリゲート艦そして快走艦などで構成される。16艘のジーゼル潜水艦部隊が海上艦隊を補強する。これを人民解放軍の海軍と比べてみよう。73艘の主要な海上艦、84艘の哨戒艇、63艘の潜水艦で構成されており、日本にとってはこの戦いはいささかきついと思うかも知れない。物量で見る限りは中国海軍は遥かに優れている。しかし、これらの数値は誤解を招きやすい。何故ならば、三つの理由がある。
(1)     軍事戦略の専門家であるエドワード・ルトワックが観察したように、武器というものは「ブラックボックス」のようなものであって、実際に戦闘で使用するまでは果たして宣伝されているような性能を持っているのかどうかは誰にも分らない。戦闘は技術的な仕様ではなく、戦闘を通じて初めて軍事的技術の本当の価値が評価できる。実際には、極度の緊張や戦闘の混乱の中で艦船や航空機ならびにミサイルが達成する内容を予測することはほとんど不可能に等しい。ルトワックによれば、紛争が開かれた国と閉ざされた国との間で起こった場合、この傾向は特に正しい。開かれた社会では軍事的な失敗は公開の場で論じられるが、閉鎖された社会では欠陥の存在を外へは漏らさないようにする。ルトワックは米国とソ連との海軍の競争も引用している。ソ連海軍は紙の上では威圧的に見えた。しかし、冷戦の頃、外洋におけるソ連の軍艦は、手を抜いた艦船の操作に始まり錆びついた船殻に至るまで、間違えようもない衰退の兆候を示していた。人民解放軍の海軍も何かを隠しているかも知れない。海上自衛隊を支える基盤の質や兵員の能力は人民解放軍が有する量的な優位性の一部またはそのすべてを相殺してしまうかも知れない。

(2)     戦争行為には人的な変数がある。セオドール・ルーズベルトは、1812年の海戦についての説明で、米国海軍の成功はたった1艘のフリゲート艦が英国海軍と闘い、勝利を収めたのは高度な艦船の設計とその建造ならびに将兵の優れた能力との産物である、言葉を換えると、それは物と人の要因にあるとした。後者の要因は操船の技、砲術、ならびに、ひとつの海軍を他の海軍から引き離す無数の特性によって計測される。船員たちは港に停泊して装置を磨くことによってではなく、海洋へ出て航海をすることによってこれらの特性を磨き上げる。海上自衛隊の艦隊はアジアの海を継続的に航海し、単独あるいは他国の海軍と組んで演習を行う。それと比べると、人民解放軍の海軍は不活発だ。海賊に対処するために2009年から始まったアデン湾への展開を除けば、中国艦隊はほんの小さな航海や演習のために外洋へ出るだけである。これでは船員たちが演習のリズムを会得し、自分たちの職人技を学ぶ時間、あるいは、健康な慣習を育む時間はとても足りない。人的な優位性は日本側にある。

(3)     問題点を艦隊に帰するだけでは誤解を生んでしまう。北東アジアで純然たる艦隊対艦隊の衝突が起こることはないだろう。アジアのふたつの巨人国家は地理的に非常に近い。それぞれの国の陸地は、島々を含めて、不沈空母やミサイル発射台となる。適切に武装し要塞化された陸上施設は海軍力の行使には素晴らしい力を発揮する。したがって、両国の陸上の火器に関しても考慮に入れる必要がある。 日本はアジアの海岸線を包み込む第一列島線の北部の弧を形成し、黄海と東シナ海は東部前線を形成する。対馬海峡(日本と韓国との間にある)から台湾に至るまで、何れの島も中国の海岸線からは500マイル未満である。尖閣諸島あるいは釣魚島を含めて、大多数の日本の島はもっと近くに位置している。これらの窮屈な海域においては、戦場がどこにあったとしても、陸上の火器の着弾範囲内となろう。両国の軍部は戦術的な軍用機を出動させ、その戦闘範囲は黄海から東シナ海だけではなく西太平洋までをも網羅させよう。両国とも陸上発射型の対艦巡航ミサイルを所有しており、その攻撃力を総合的な戦力の一部とすることができる。しかしながら、一部に非対称な部分がある。人民解放軍の弾道ミサイルはアジアの如何なる地点であっても陸上拠点を叩くことができる。艦船が出航する前に、あるいは戦闘機が空中へ舞い上がる前に日本の戦力は叩かれる危険にさらされる。そして、中国の第二砲兵部隊あるいはミサイル部隊は大陸部からでも海上を航行中の艦船を狙うことができる対艦巡航ミサイルを配備している。着弾距離は900マイルと想定され、この対艦巡航ミサイルはシナ海の内部ばかりではなく日本の如何なる軍港に対しても攻撃することができる。それを超して、さらに先までも可能だ。尖閣諸島は日本側の立場からは防衛が非常に困難だ。これらの島々は琉球列島の最南端に位置しており、沖縄や日本の本土よりも台湾に近い。遠く離れた基地からこれらの島々を防衛することは容易ではない。しかし、日本が移動型で運搬が簡単に出来る88型の対艦巡航ミサイルを前線に配備し、地上要員を琉球列島の島々へ配備すると、日本の地上部隊は中国の艦船が近傍の海域へ出入りすることができないような状態に変えてしまうことが可能となる。一旦腰を据えてしまうと、それを排除することは中国軍のやる気旺盛なロケット部隊や空軍にとってさえも非常に困難だ。それがどちら側であっても、海軍や空軍ならびに陸軍を有機的に統合し、もっとも先鋭な海の戦闘能力を備えた側が勝利を手にすることになる。もし、日本の政治指導者や軍部の指導者が創造的に物事を思考し、適切な装備を調達し、最大の効果を引き出せるように地図上で配備することができれば、日本の勝利だ。結局のところ、海上での天王山で勝利するために日本は中国軍を打ち負かす必要はない。何故ならば、日本はすでに紛争中の島々を持っているからだ。やることが必要なのは中国がアクセスすることを否定するだけでいい。もしも北東アジアの海域が無人の緩衝地帯となり、日本軍が手放さないならば、政治的な勝利は東京のものとなる。そして、日本はその軍隊を本国の防衛に専念させることができる。一方、人民解放軍の海軍は三つの艦隊に分断され、中国の非常に長い海岸線を防衛するために散開することになる。中国の司令官はジレンマに悩まされる。もし日本との紛争中に海軍をひとつの海域に集中配備すると、他の海域を無防備のままにするという危険に遭遇する。北京にとっては、たとえば、北東海域での紛争の期間中ずっと南シナ海を無防備にしておくことは危険である。 
そして、最後に、中国の指導者は海戦が起こった場合それが自分たちの海軍力増強プロジェクトをどれほど後退させるかについても十分に考慮するべきである。中国は自国の経済や外交の将来を強力な海軍力にかけてきた。2006年の12月、胡錦濤主席は人民解放軍司令官に対して自国の海洋上のライフライン、特に、インド洋のエネルギー輸出の拠点と中国国内のユーザとをつなぐシーレーンを「四六時中」防衛することができる「強力な人民解放軍の海軍」を構築するよう命令した。それには多くの艦船を必要とする。日本との海戦で艦隊の多くを失えば、たとえ勝利に終わったとしても、北京政府は世界にも誇れる海軍がある日の午後その方向をまったく逆の方向に変えるのを見ることになりかねない。中国の政治および軍部の指導者がこれらのことすべてについて十分に理解して欲しい。もし理解していただけるとすれば、この「2012年の日中大海戦」はここに示した紙面以外では起こることがないだろう。 
この大学教授は海戦史を挿入してわれわれ素人でも理解しやすいようにこの記事を書いてくれた。海軍大学で若い学生を相手に毎日教鞭を振っている様子が目の前に見えるような気がする。興味深い内容であると思う。
上記に引用したみっつの記事によって、米国内では、特に海軍の戦略に関する研究者にとっては、尖閣諸島はいかに価値のないものかという論理があることを知ることができた。
日本人の心情としては、尖閣諸島の領土問題では、日米安保条約の発動の対象になるのか、つまり、米軍が支援するのかどうかが常に大きな関心事であった。そこへ、米議会の公聴会では、海軍分析センターの戦略研究者から米軍の関与は中国が住民が住んでいる日本の本土へ攻撃した時だけに限るべきだとの提言があったことによって、われわれ日本人自身が自国の防衛をどのようにするのか、尖閣諸島を防衛する本気度を試される時がやってきた。
好むと好まざるとにかかわらず、今、日本の独立を真の意味で考える絶好の機会がやってきたということかもしれない。 





<補足 (Dec/18/2013):注4の引用文献「2012年の日中大海戦」の著者、Prof. James Holmesに内容の一部の解釈について質問したところ、快く返事を送っていただいた。その際、私は自分の感想として、締めくくりにある言葉(もし理解していただけるとすれば、この「2012年の日中大海戦」はここに示した紙面以外では起こることがないだろう。)が非常に印象的だったと率直にメールに書いた。
それについて、著者は次のように言ってきた。まったくその通りだ。このエッセイで一番実現したかったことは、これが中国に対して何らかの抑止力として作用すること、一方、日本に対してはさまざまな対応があることから失望することはないというメッセージにしたかったとのことだ。そこには戦争を回避したい意図が明確に読み取れた。
私としても、その著者の気持をブログを読んでいただく皆さんと一緒に共有できたら非常に嬉しいと思う次第だ。>
 

 

参照:

1Are the Senkakus Worth a War?: By Pat Buchanan, Information Clearing House, Dec/13/2013
2: 「米軍は尖閣を守るな」という本音  価値のない島のためになぜ中国軍と戦闘するのか?:古森 義久、JB PRESS2013410日、jbpress.ismedia.jp/articles/-/37543
3CHINA’S MARITIME DISPUTES IN THE EAST AND SOUTH CHINS SEAS: U.S.-CHINA ECONOMIC AND SECURITY REVIEW COMMISSION, Apr/04/2013 
4: The Sino-Japanese Naval War of 2012: BY James R. Holmes, Aug/20/2012, www.foreignpolicy.com/.../2012/.../the_sino_japanese_naval_...  

 


2013年12月9日月曜日

イランをめぐる国際政治の不思議さ


シリア紛争は化学兵器を国際監視団の指導の下で廃棄処分をするということで当面の政治決着がつき、米国が主張していたシリアに対する空爆は、この8月、土壇場で何とか回避となった。米国の軍産複合体はこの米国政府のドタキャンに大いに失望したことだろう。シリアを政治的に後押しし、アラブ世界の政治的な地図を二分する二大勢力のひとつであるイランについて言えば、イスラエルやサウジアラビアはイランとの和解を進めようとしている米国の外交姿勢に対しては不満を強めている。これら二つの国の政治的な地位が大きく揺らぐことになるかも知れないからだ。

米国やヨーロッパ(フランスを除く)、中国およびロシアがイランとの和解を進める中、国際政治の動向については、各国の戦略や思惑に関してさまざまな論評や憶測がインターネットを賑わしている。

情報検索をしている最中、ある記事[1]を読んでいて私は思わず笑ってしまった。今日はそれをご紹介したいと思う。

たった1行の文章の表現が何と私のような英語を母国語とはしていない一介の読者さえをも笑わせてくれたのだ。何十、何百と記事を読んでいても、こんな経験は非常に稀である。少なくとも、私にとっては....。

まさに、ゴルフでのホール・イン・ワンみたいなものだ(残念ながら、未経験である。とにかく、稀そのもの)。あるいは、何千ページもある研究社の英和辞典を「この辺りだ」と開いて、一発で目的の単語に辿り着いた時に感じたあの一種独特な印象と合い通じるものがあった。(最近は辞書を使う機会が激減しているが、こちらについては我が生涯で何回かの経験がある。とても些細なことではあるが、けっこう感動的な出来事だ)。

その仮訳を下記に段下げをして示そう。

もしも米国とイランとの間の政治的な議論についてあなたは十分に理解していると思っているならば、これは実は核兵器の問題ではない。決してそうではない。

ここで、あなたは考え込んでしまうかも知れないが、「もちろん、核兵器についてだ」と言い張ることだろう。皆がそう言っている。

ところが、誰でもというわけではない。ウィリアム・O・ビーマンがハフィントン・ポストで指摘しているように、これはそう言う人の数が多いとか少ないとかといった問題ではないのだ。

米国はイランとの間で当面の同意をした。それに関する発表をみると、オバマ大統領の発言には何か不可思議に感じさせるものがある。その発表の際に、同大統領は何回も「核兵器」という言葉を繰り返した。あたかもイランは核兵器を開発していると言わんばかりだ。あなたはこう考えるのではないだろうか。「オバマ大統領は果たして本気でそう思っているのだろうか」、あるいは、「非難の言葉として受け留められるかも知れないにもかかわらず、繰り返して使用したこの言葉は強硬派を懐柔するための単なる言い回しのひとつではないか」と。

イランが核兵器プログラムを持っていたという証拠はない。そのことは同大統領は十分なほどよく知っているに違いない。世界中のあらゆる諜報機関がこの事実を検証しており、その検証作業はすでに10年以上も続いている。米国の国家安全保障評価に関する報告書は二回(2007年と2011年)発行されており、それらの報告書はこの事実を強調している。国際原子力機関も「イランは核材料を軍事目的に振り向けたことはない」と一貫して報告している。イスラエルの諜報機関の分析担当者さえもイスラエルにとって「イランは危険ではない」と判断している程だ。

米国とイランの同意内容を批判する評論家は「イランは何かを諦めたわけではない」と評したが、彼らが言っていること自体は、皮肉にも、正しいのだ。

P5+1に対して譲歩することによって、本質的には、イランは自分たちが企てもしていなかったことに関して当面何も行わないで、それを停止するということに同意させられた」と、ビーマンは述べている。 「米国とその同盟国は、イランがウランを濃縮したという事実から議論を一足飛びに核兵器に直結させるという、まさに想像を絶するような論理の飛躍をさせた。これは非常に大きな間違いであって、一般大衆にそう信じ込ませるために喧伝されたのだと言えよう。」 

そうしようとは考えてもいなかったことを当面中断することにイランが同意してくれたことに対して、そのお返しとして、イランの国民に大きな負担を強いている経済制裁の一部が解除されようとしている。

他にも皮肉な状況がある。同盟国の反動主義者たちは、米議会の同調者を含めて、幾つかの理由に基づいてイランと米国の和解に反対を唱えている。

主要な反対論者であるイスラエルとサウジアラビアに注目してみよう。中東地域では、これらの国は米国のもっとも親密な同盟国である。両者は、互いに重複するような理由から、米国とイランの間で34年間も続いた冷戦状態の終結を座視することに嫌悪感を覚えるに違いない。

サウジアラビアは米国の支援によって非常に強力な軍備を所有する武装国家であり、スンニ派のアラブ人王国である。一方、イランはイスラム社会のもうひとつの宗派であるシーア派のペルシャ人国家で、大きな影響力を持っている。(イラン人がペルシャ湾と呼ぶ海域をアラブ人はアラビア湾と呼んでいる。) 米国政府は民主的な選挙によって選出されたイラン政府を1953年に崩壊させ、その後に反動的な傀儡政権を樹立した。それが1979年にイスラム革命によって崩壊するまでイランは米国に従属する国家であった。米国の核の傘の下で軍事的防護を享受しているサウジアラビアとしては、イランが米国の好意を受ける立場に復帰するような状況は見たくもない。そのようなことが起こると、それは中東において自他共に認める自国の卓越した地位を失うことになるからだ。

イスラエルは米国製の武器をもっとも多く享受しており、核武装国家である。それ故に、この地域ではもっとも強力な国家であって、その武力をパレスチナ人を意のままに操るために駆使し、彼らの土地を計画的に盗み、隣国をも脅かしてきた。たとえば、レバノンへは定期的に侵攻している。イスラエルの指導者は自国が周囲に与えている非人道的な行為から世界の関心をそらすためにも敵を作り出す必要がある。米国政府はイスラエル・ロビーに押されて、それに対しては何らの異議も唱えず、むしろ後押しをする。こうして、幾度となく和平提案をしてきたイランを「生存の脅威」と位置づけている。ばかばかしい限りだ。たとえイランが原爆を所有していると見なすために必要なありとあらゆる空想的な想定をしてみたとしても、何百個もの核弾頭を所有し、しかも、その内の幾つかを潜水艦に装備しているイスラエルに対抗することに何かいいことがあるとでも言うのだろうか。

イスラエルの国家安全保障評議会の委員であったヨエル・グザンスキーは、この当面の同意内容を非難した際、多くのことを暴露した[2]。この同意は「イランが正当な国家である」というお墨付きを与えるようなものだとさえ述べた。何という偽善的な態度であろうか。 

イラン人の多くは教育を受けた中産階級であり、多くの人たちは米国との友好関係を歓迎することだろう。イラン人も米国人も通商や観光および個人的な交流を通じて繁栄するだろう。

ひとつのボーナスとして、そのような友好関係はイランの神権政治を不可避的に弱めるだろうと思われる。これこそが何れの側であっても原理主義者たちは何としてでも 予防したい理由なのだ。

シェルドン・リッチマンはThe Future of Freedom FoundationFFF)の副総裁であって、 FFFの月刊誌の編集者を務めている。15年間のわたってニューヨーク州アーヴィントンに所在するFoundation for Economic Education が発行するThe Freemanの編集者を務めた。著書として、FFF賞を受賞した「Separating School & State: How to Liberate America's Families」、「Your Money or Your Life: Why We Must Abolish the Income Tax」や「Tethered Citizens: Time to Repeal the Welfare State」が挙げられる。http://fff.org

アンダーラインは私が施したものだが、その箇所が私を笑わせたのだ。

たとえ何ページもの紙面を弄したとしても、この一行ほど雄弁に現状を描写することが可能だろうか。国際政治に対する皮肉に満ちた表現、ならびに、言葉を操る巧みさが素晴らしい。この記事を通じて著者が言いたかった趣旨や論点もさることながら、芸術の域にあるとでも言えそうなこの言語表現に脱帽し、敬意を表したい次第だ。

 

参照:

1: Iran: It’s Not about Nuclear Weapons: By Sheldon Richman, Information Clearing House, Nov/28/2013

2: Analysis: Israel’s options limited: By ASSOCIATED PRESS, Nov/24/13, www.politico.com/.../analysis-israels-options-limited-1...

 

 

 

2013年11月19日火曜日

ノーム・チョムスキー: 「文明は資本主義の時代を生きながらえることができるか」 


個人的な話になるが、今年は国際政治の究極の段階とでもいえる戦争に関してかなりの時間を費やした。尖閣諸島問題を始め、シリア紛争については毎日のように多くの時間を情報検索のために使っていた。ブカレスト市に住んでいる私にとっては日本のテレビを見たり新聞や雑誌を購読することは事実上できないので、情報はインターネット上であれこれと検索し、これはと思う記事を拾うことになる。知りたいと思う件については自分の方から情報を取りにいくしかないのだ。この8月、シリア紛争は短期間の間に思わぬ方向へと劇的に展開したことから、しばらくの間私はインターネットに釘付けにされてしまったかのような状況だった。その結果、自作自演の戦争行為をさまざまな角度から知ることができた次第だ。
しかし、今日は環境問題に立ち入ってみたいと思う。
日本では、この秋の台風シーズンに伊豆大島が大豪雨に見舞われ、大規模な土砂災害が発生した。多くの犠牲者が出た。伊豆大島に住む人たちにとっては、このような大規模な土砂災害は生涯で始めてだったという。今までの経験の延長線上では考えられないような状況だったということだ。犠牲者の方々に黙祷したいと思う。
この10月に日本列島に接近した台風の数を見ると、今年は歴史上最多とのことだ。
そして、つい最近フィリピンを襲った超大型台風30号による被害の全貌が判明しつつある。犠牲者数は1116日の時点で国連の推計では3600人を超すと報道されている。街並みが消えてしまい、瓦礫と化した。
暑い夏のシーズンが以前に比べて長期化していると言われている。
オーストラリアで毎年発生する山火事は人口の密集度がもっとも高い州で最悪の事態となった。シドニーの郊外にまで迫った。年中行事になっているとは言え、山火事が発生する期間は長期化し、その規模が大きくなっていると報告されている。米国アリゾナ州のフェニックスでも、今夏、史上でもっとも暑い夏となった。3年前の2010年には、ロシアを襲った暑い夏は大規模な森林火災をもたらした。衛星写真を見ると、赤い炎が何箇所にも見られ、白煙が大きく広がっている。130年前に気象データの記録が始まって以来もっとも暑い夏だった。
地球規模で見ると、地球の温暖化は平均気温で0.8Cの上昇だという。しかし、地域的にみると、気象現象の変動はより大きな振幅となって現れる。巨大な台風になったり局地的な大豪雨をもたらしたりすることが多い。最近の気象データや世界各地で起こっている水害や土砂災害あるいは森林火災の規模をみても、この傾向は否定できない。
世界の気候変動、つまり、地球の温暖化は多くの地域ですでに日常生活の脅威となっている。この環境の激変はどこまで進行するのだろうか。今世紀末にはどんな気候が待っているのだろうか。それは想像を絶するような世界かも知れない。 

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世界でもトップ・レベルの論客であるノーム・チョムスキーの最近の記事[1]を今日は覗いてみたい。その表題は仮訳すると「文明は資本主義の時代を生きながらえることができるか」だ。内容は環境問題。深刻な地球規模での環境問題を抱えて、資本主義はいったい生きながらえることができるのだろうかという観点から論評をしているのだが、その評価は非常に懐疑的だ。
チョムスキーの活動分野はすこぶる広い。特に、国際政治の分野では、チョムスキーはベトナム戦争への反対を意思表示したことを始めとして、多方面にわたって大きな足跡を残している。言語学者としてばかりではなく、高齢になった今でも言論界にはさまざまな形で影響を及ぼしているようだ。ウィキペディアの説明を拝借すると、彼の業績は下記のように記述されている。その記述をみるだけでも、チョムスキーの偉大さが分かる。
 
 
エイヴラム・ノーム・チョムスキー英語Avram Noam Chomsky1928127 - )は、アメリカ合衆国哲学者言語哲学者言語学者社会哲学者論理学者チョムスキー50年以上マサチューセッツ工科大学に在籍し、言語学および言語哲学の研究所教授 (Institute Professor) 兼名誉教授である。
チョムスキーの業績は言語学分野だけにはとどまらず、戦争政治マスメディアなどに関して100冊以上の著作を発表している。Arts and Humanities Citation IndexA&HCI)は1500以上の人文学系の専門誌を網羅し、社会科学や自然科学の分野からも関連データを収録しているが、このA&HCLによると、1980年から1992年にかけてチョムスキーは存命中の学者としては最も多く引用され、全体でも8番目に高い頻度で引用されている。彼は「文化論における巨魁」と呼ばれ、2005年には投票で「世界最高の論客」 (world's top public intellectual) に選出された。
どういう意味合いでノーム・チョムスキーが「世界最高の論客」として選ばれたのかというと、それは、2005年のガーディアン紙[2]によると、彼独特の将来の展望とか国際政治に対する視点から選ばれたものだという。
1991年に旧ソ連邦が崩壊したことから、数十年間続いていた東西冷戦の基本的な構造は消滅した。これによって、米国は一人勝ちの状況となった。まったくの結果論であると私は思うのだが、当時、共産主義に対する資本主義の優位性が様々な形で言いはやされた。それは資本主義陣営の人たちには一種の自己満足や優越感を与えたようだ。
世界市場を席巻しようとする米国の多国籍企業の経営方針は「グローバリズム」とか「新自由主義」と言い直された。しかしながら、たとえ新たな言葉に置き換えられたとしても、米国の経済システムの本質は、物やサービスをより多く販売するために、米国が持つ圧倒的な軍事力を背景に米国の多国籍企業のために海外市場へ飽きることなく展開することである。
このような現状の中、資本主義の将来はノーム・チョムスキーの眼にはいったいどのように映っているのだろうか。それが今日のテーマだ。
チョムスキーの記事[1]を仮訳して、皆で共有してみたいと思う。引用部分は段下げして示す。
「資本主義」という言葉は通常米国の経済システムを指して用いられているが、そこには創造的な変革に対する財政支援から始まって、倒産させるには余りにも大きい銀行に対する政府の保険政策に至るまで、さまざまな国家規模の介入が付きものだ。
このシステムは高度に寡占化されており、市場への依存に限定されている。そして、その傾向は強まるばかりである。企業の利益について言えば、過去20年間、大企業のトップ200社の利益が占める割合は急激に増大した、とロバート W.マックチェスニーが「Digital Disconnect」と題した新刊書で述べている。
「資本主義」は今や資本家が存在しないようなシステムを記述するためにさえも広く用いられている。たとえば、スペインのバスク地方に本拠を置いた労働者所有の「モンドラゴン複合企業体」、あるいは、オハイオ州の北部で保守層からも広く支持を集めて展開されている「労働者所有企業群」があるが、これらふたつの事例はガー・アルペロヴィッツによって彼の貴重な労作の中で詳しく論じられている。
この「資本主義」という言葉は19世紀末から20世紀始めにかけて米国の著名な社会哲学者であったジョン・デユーイが提唱した産業民主主義を指すために用いる者もいる。
デユーイは労働者が「自分たちの産業の運命に関してその主となる」ことを求め、生産、証券取引、広報、輸送ならびに通信を含めて、あらゆる機関を公共の管理下に置くよう求めた。これが不完全に終わると、政治は巨大ビジネスの社会が投げかける単なる影のような存在に留まることになるだろう、とデユーイは論じた。
デユーイが非難したこの不完全な民主主義は近年ズタズタになってしまった。今や、政府に対するコントロール権は収入の尺度で言えばその頂点に集まっているほんの一握りのエリートたちだけに集中しており、「それよりも下にいる大多数の人々は実質的には公民権を剥奪されている。もしわれわれが意味する政治的体制(つまり、民主主義体制)においては政策というものは公衆の意思によって著しく影響されるべきものだと位置づけるならば、現行の政治・経済システムは本来の民主主義からはすっかり逸脱したものとなってしまった。しかも、すっかり寡占化されたものになってしまっている。
「資本主義と民主主義とはうまく整合するのだろうか」という問いかけに関しては、近年、非常にまじめな議論が行われている。もし「実際に存在する資本主義的な民主主義(really existing capitalist democracy)」(これを短縮してRECDと呼ぼう)から今後とも脱却することはできないとするならば、その質問には容易に答えることができる。一言で言うと、両者はひどく相性が悪い。
ここで、RECDについて著者が何を意味したいのかを考えてみよう。RECDという綴りは発音的にはwreckedという単語と重なってくる。その意味は「大破した」とか「破綻した」である。著者が直接そう言っている訳ではないけれども、「現状の資本主義的な民主主義はすっかり破綻してしまっている」と、著者は指摘したいように私には読める。
さらにこの論評の続きを覗いてみよう。
このRECDの時代やそれに同調してひどく希釈されてしまった民主主義を乗り越えて、文明は果たして生き延びることができるのかというと、その可能性はとても低いように私には思える。しかしながら、機能性の良い民主主義であるならば、何らかの違いをこれからでも実現することができるのではないか。
文明が直面している最も重要な議論から反れないようにしよう。最も重要な議論とは環境の激変についてのことだ。RECDの下ではよくあることだが、政府の政策や一般大衆の世論はこの中心的な軌道から大きく反れてしまうことがある。
アメリカ芸術科学アカデミーの雑誌「ダイダロス」の最近号に掲載された幾つかの記事はそのギャップの特質を精査しようとしている。
研究者のケリー・シムズ・ゴラガーの指摘によると、「再生可能な動力源に関して何らかの形を持った政策が109カ国で立法化されている。また、118カ国では再生可能エネルギーの目標値が設定された。しかし、それとは対照的に、米国では再生可能エネルギーの使用を育むために必要となる国家レベルでの恒常的かつ安定的な政策は何ら採用されてはいない。」
国際的な広がりを見せる米国の政策を推進するのは世論ではない。それとはまったく逆である。世論は、どちらかと言うと米国政府の政策が指し示す方向性よりも世界的な標準に遥かに近い位置にあり、科学的合意が形成されている将来の環境災害やそれほど遠い将来のことではなくわれわれの孫たちの生命を脅かすような災害に立ち向かう上で必要な行動についてもより協調的である。
ジョン・A・クロスニックおよびボー・マッキニスはダイダロスで次のような内容を報告している。
大多数の人たちは、電力会社で発電を行う際に生成される温室効果ガスの放出量を削減しようとする連邦政府の政策を好感を持って迎えた。2006年のことではあるが、回答者の86%が電力会社に温室効果ガスの放出を削減するよう要求することや減税措置によってそうするように促す政策に関して賛意を示した。また、水力や風力または太陽エネルギーからより多くの発電をしようとする電力会社に対する同年の減税措置についても好意的であった。これらの大多数の市民の意見は2006年から2010年までずっと同レベルに維持されていたが、その後やや低下した。
一般大衆が科学的な知見によって影響を受けるという現実は経済や国家政策を操ろうとするエリートたちにとっては非常に迷惑至極なこととなる。
彼らが最近心配していることを描写してみよう。それはALECAmerican Legislative Exchange Council)によって州議会に対して提案された「環境問題の理解度向上に関する法律」に見事に反映されている。ALECは民間企業からの資金援助によって運営され、企業群や一部の超お金持ちたちのために奉仕することを目的にして制定された法律だ。
ALEC法とは、K-12という会社が運営するオンライン教室において気象科学については「均衡がとれた学習」を行うよう義務付けようとするものだ。「均衡がとれた学習」とは実に巧妙に暗号化された表現であって、実際には気候変動を否定することを教え込み、主流の気象科学の教えと「均衡」させることが狙いとなっている。それは公立校で「創造科学」を教えることを可能にするために天地創造説の信奉者たちによって擁護された「均衡がとれた教え」とよく類似している。ALECのモデルに基礎を置いた立法がすでに幾つかの州で導入された。
ここには、新自由主義あるいはグローバリズムを推進する資本主義の原理が具体的な行動として明確に現れている。地球の温暖化現象は科学的な知見として大多数の科学者によって受け入れられている。しかしながら、チョムスキーの主張によると、資本の論理はそれさえも覆そうとしている。教育の場で「均衡がとれた学習」を提供し、科学的な知見をこきおろそうとしているのだ。飽くなき利益の追求は留まることを知らない。環境を含めすべてを利益の対象として翻訳してしまうのだ。そして、もちろんのことだが、その結果について責任をとる積もりは毛頭ない。ここに紹介されているALEC法は何と巧妙に作られていることか。素人にとっては、「均衡がとれた学習」という文言からはその背後に隠されている真の理由を見出すことは至難の技だ。この種の洗脳プログラムは他にも数多く存在しているだろうと推測される。
もちろん、その狙いのすべては気象に関する教えの中では言葉のあやを駆使して巧妙に表現されている。疑いもなく、うまい考えだと言えようが、これはわれわれの生存を脅かしかねない。企業の利益を保護する観点から重要だという理由だけで選定されたこのような行動に比べれば、それよりも遥かに重要なテーマを思い浮かべることはさほど困難なことではない。
メデイアの報告は、通例、気候変動に関しては意見がふたつのグループに分かれ、両者間の論争を提起することが多い。
ひとつのグループは大多数の科学者たちや世界中の主だった国々の科学アカデミー、ならびに、専門的な科学雑誌や気候変動に関する政府間パネル(IPCC)によって形成されている。
このグループのメンバーは地球温暖化が進行しつつあるということ、人間活動が大きな要因であること、状況は深刻であり、多分、切迫していること、ならびに、近い将来、恐らくは数十年の内に世界はこの現象が急激に進行する転換点に到達し、後へ戻ることはできないかも知れない、これは厳しい社会的および経済的な影響を伴う、といった点で科学的合意が形成されている。非常に複雑な課題に関してこのような合意に達することは稀なことである。
もうひとつのグループは懐疑派によって構成されている。まだ多くのことは知られてはいないことに警鐘を鳴らす何人かの著名な科学者も含まれている。つまり、状況はそんなに悪くはない、あるいは、状況はもっとひどいかも知れないということだ。
しかし、この不自然な論争からはもっと大きな懐疑派グループが除外されている。このグループはIPCCの定例報告書は余りにも保守的であるとみなす著名な気象科学者たちのことだ。残念なことではあるが、これらの科学者は今までも何度となく正しい意見を述べてきた。
宣伝活動は明らかに米国の世論に対して何らかの影響を与えようとしている。世論は世界的な標準と比べてもより懐疑的である。しかしながら、宣伝活動の成果は背後に控えている主(あるじ)たちが満足するには決して十分ではないのだ。この事実こそが、巨大企業が州の教育システムに対して攻撃をしかけ、一般大衆が科学的研究の成果に関心を寄せるという主たちにとっては不都合で危険な傾向に対して反撃をするひとつの理由となっているのだ。
数週間前に行われた共和党全国委員会の冬の会合において、ルイジアナ州知事のロビー・ジンダルは党の指導陣に対して「われわれは愚かな党のままでいることに終止符を打たなければならない....われわれは選挙民の知性を侮辱するようなことは止めなければならない」と警告した。
RECDシステム内においては、経済や政治システムの主たちの近視眼的な利益を実現するためにはわれわれ国民は愚かなままで、科学や合理的行動によって間違った方向へ導かれることがないように科学的知見や合理的行動をこきおろしておくことが非常に重要なのである。
上述のような関与は奥深いところに隠されており、簡単には確認のしようもなく、非常に選択的な方法でしか観察することができない。これは富裕層や権力者に奉仕させる強力なシステムを維持するためにRECD内で説かれている市場原理主義的な理論に根ざしたものだ。
良く知られているように、公の理論にはさまざまな「市場の非効率性」が存在する。中でも、市場取引では他者への影響を配慮することはできない。これらの「外在性」が招く結果は相当に深刻なものとなり得る。現在進行している経済危機はその好例であろう。これについて因果関係を遡ってみようとすれば、その一部は危険な取引を引き受けた際に「システム上のリスク」(システム全体を崩壊させるような危険性)を無視した大銀行や投資企業にまで辿り着くことが可能である。
環境の激変はもっと深刻だ。現在無視されている影響の中でもっとも極端な事例は生物種の運命だ。一生懸命逃げようとしても逃げ出す場所はなく、その生物が生息する領域と運命を共にするしかない。
将来、(もし人類が生き残るとするならば)歴史家たちは21世紀の初めに起こったこの摩訶不思議な出来事を振り返ってくれることだろう。人類史においては初めてのことではあるが、人類は自分たちの活動の結果として非常に深刻な問題に直面している。つまり、人類の活動そのものが人類のまともな生存を脅かしているのだ。
上述の歴史家たちは、史上でもっとも裕福であり、もっとも強力な国家であり、比べようもないほどの優位性を謳歌している国家がこのやがて起こるかも知れない環境の激変を助長し、しかも、非常に皮肉なことには、それに最大限の支援をしてしまっている現状を観察することになるだろう。
さまざまな社会形態があるが、人類の次世代がまともな生活を送ることができるように最大限の努力を実際に行っているのはいわゆる「原始的な」社会である。つまり、北米先住民族あるいは土着民たちである。
数多くの土着民を抱えている国は地球を保全するという意味合いでは最先端を行くことになる。土着民を絶滅させた国、あるいは、土着民を隅に追いやってしまった国は破滅に向かって競争をしているようなものだ。
エクアドルは非常に多くの土着民を有している。同国は地中に眠っている巨大な石油資源を地下にそのままの状態で維持して行けるようにと先進諸国からの支援を得たいとしている。
それとは対照的に、米国やカナダは、カナダで産出される非常に危険なタールサンドを含めて、引き続き化石燃料を燃焼させようとしている。しかも、このまま自己破壊に向けて突き進んだ結果どのような世界になるのかに関しては何らの注意を払うこともなく、出来る限り早急に開発しよう、できる限り多く使用しようとしているのだ。
この所見は次のように要約することができる。
世界中の如何なる国や地域を取り上げてみても、先住民の社会だけは彼らが「自然界の権利」と名づけたものを防護しようと大変な努力をしている。それとは対照的に、先進国の人たちや世事にたけた連中はこれを一蹴してしまっている。
物事の理由付けが必ずしもRECDのフィルターを通して歪曲されたというわけではないとすれば、この現状は道理をわきまえた者に予見することができるような行動とはまったく逆方向だと言わざるを得ない。 

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ここで、「自然界の権利」という概念を確認しておきたいと思う。「自然の権利」とも表現されている。ウィキペディアに収録されている解説を覗いてみよう。それによると、
自然の権利とは自然保護を目的とした活動を法廷を舞台として行うための考え方のひとつ。「自然の価値を直接的に承認し、自然物に法的主体としての地位を承認する試み」として提唱されている概念である。人間中心主義からの脱却が理論的背景にあり、生命・自然中心主義への発想転換にともなって論じられている。
この「自然の権利」を法廷で実際に訴えた例は幾つかある。その場合、原告名として植物や動物名が象徴的に使われることが多い。
米国では、
1978年、ハワイにおいてパリーラ(鳥の一種)の名のもとに、人間が放牧した家畜による自然破壊を差し止め家畜をパリーラの生息地から除去することを求めて提起された自然保護訴訟が最初の事例となった。この訴訟では、パリーラは勝訴し、パリーラ生息地からの家畜の除去が命じられた。
日本では、
実際に訴訟として本格的に自然の権利論が展開されたのは、1995年提訴の「奄美自然の権利訴訟」(アマミノクロウサギ訴訟)が最初である。この裁判では、自然保護活動家Aらのほか「アマミノクロウサギ」など動物4種が原告として訴状に名を連ねた。鹿児島地方裁判所は、動物に法的な権利主体性(当事者能力)はなく、「アマミノクロウサギ」などの記載は無意味として訴状を却下した。
「自然の権利」は環境保護の概念としてはよく理解できる。しかしながら、上記にもあるように裁判所側は動物には訴訟をする当事者能力がないとして訴状を却下している。一方、「アマミノクロウサギ訴訟」では、裁判所側は問題提起としては理解を示したとも言われている。この訴訟はその後の「ジュゴン訴訟」と並んで「自然の権利」という概念を日本に広めることになった。

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東電の福島第一原発におけるメルトダウン事故は環境破壊の最たる事例だ。そして、廃炉作業には30年も40年もの歳月を必要とするとされている。この廃炉の作業では廃炉を順調に実施する人的資源の確保が最重要だと指摘されている。いままでにはなかった専門性をもった技術者を多数育成することが必要となるのだ。さらには、使用済み燃料棒を地中処理にすることに関しては、埋設後何万年もの安全性を考えると地震が頻発する日本では立地を決めることができないままである。技術的にまっとうな結論が得られないのである。言うまでもなく、廃炉となった原子炉や使用済み燃料の放射能が人の健康には甚大な影響を及ぼすことがこれらの難題の根源的な要素となっている。
ここにも、チョムスキーが述べた「人類の活動そのものが人類のまともな生存を脅かしている」構図が鮮明に現れている。今、日本の政治、経済、市民生活、そして、日本人としての社会集団の意識のど真ん中には福島原発事故が招いた不安が、その実態さえも解明されないまま、それが故に次世代を担う子供たちの健康に対する適切な対策をとることもないままに、厳然と存在している。これは巨大企業による利益を追求する経済システムが今や完全に破綻したということをわれわれ日本人に示していると言えるのではないだろうか。 

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チョムスキーの論理からすると、憲法に「自然の権利」を明記したエクアドルやボリビアがもっとも先進的な国である。その対極にあって、もっとも遅れている国は米国を筆頭にした資本主義国家群だ。天然資源を利益を生み出す資産と見なす資本主義が行き詰っているという事実は今や環境破壊の現状を見ると明白だ。最近の気候変動は、特に、大雨による土砂災害、たつ巻や台風による被害、あるいは、森林火災に見られるように、その規模は大きくなる一方であり、あたかも自然が牙を剝き出し始めたような感がある。
フィリピンを襲った超大型台風は、世界各地が今後襲われるかもしれない気候の大激変を物語っているのではないだろうか。年中行事のように台風がやってくる日本にとっては來シーズン以降の予告編を見せられたようなものだ。
地球温暖化の要因は温室効果ガスのせいではないと主張する科学者もいる。その中心的な論点は地球の温暖化は太陽活動のせいであるとしている。1991年、太陽活動サイクルの長さが地球の温暖化に関係しているとの報告があった。この説は、1991年の報告書の著者も含めて、その後のデータを含めて再検討を行った結果、オリジナルの報告とは異なる結論に到達したという。最新の知見[3]によると、1975年以降の地球温暖化の趨勢との関連性は非常に小さいことが判明した。
私自身も201199日に「10年以内に小氷河期が始まるかも」と題したブログを掲載した。しかし、太陽活動に関する最近の知見[4]によると、それほどにはなりそうもない。確かに太陽活動は低下している。今後90年間ほどは太陽の磁気活動が低下し、太陽の明るさは0.1%ほど低下すると予測されている。それによる地球の寒冷化の程度は現在進行中の地球の温暖化を覆すほどにはなりそうもないという。地球の温暖化を相殺するかも知れないと思えた太陽活動の低下による寒冷化シナリオは脆くも崩れ去ったようだ。
われわれ人類は、自分たちの子孫の幸せを願うならば、資本主義社会は率先して地球の温暖化に対処する方策を講じなければならないということだ。
「人類の活動そのものが人類のまともな生存を脅かしているのだ」とするチョムスキーの言葉は重く受け取るべきであろう。環境問題を解決しようと思えば、今や、資本主義社会の理論的枠組みを完全に組み直すことが必要だということだ。 

 

参照:

1Can Civilization Survive Capitalism?: By Noam Chomsky, AlterNet, Mar/05/2013, www.alternet.org/noam-chomsky-can-civilization-surv...
2Chomsky is voted world’s top public intellectual: By Duncan Campbell, The Guardian, 18 October 2005

3What does Solar Cycle Length tell us about the sun's role in global warming?: Skeptical Science, Jun/26/2010, www.skepticalscience.com/solar-cycle-length.htm

4Weaker sun will not delay global warmingREUTERS, Jan/23/2012