2013年1月24日木曜日

成長神話の崩壊


昨年12月、衆院選で野党の自民党は、尖閣諸島問題で中国に対して断固たる姿勢を示すと共に、経済再生を約束して政権を奪還した。阿部首相はデフレからの脱却を目指し、日銀に対してはインフレ率2%を目標とするように迫った。日銀は当初この行政側からの要請を即座に受け入れずに断ってはいたのだが、122日、消費者物価2%上昇を目指すインフレ目標について金融政策決定会合でその導入を決めた。白川方明日銀総裁は午後の記者会見で「思い切った努力が必要だ」と述べ、目標値の実現は容易ではないと語った。
阿部首相としては「失われた20年」からの脱却は多くの国民に対して政治的には非常に効果的にアピールする課題であるとして衆院選のために取り上げたものと思う。確かに、これが公約通りに実現できれば自民党に投票しなかった人たちも少なからず喜んでくれるに違いない。

しかし、今回の自民党が政権を奪還できたのは自民党に対する信頼感が強まったからということではなく、与党民主党が余りにもだらしが無かったが故に自民党が勝ったに過ぎないという辛口の批評もたくさんある。つまり、自民党の政策に期待を寄せた選挙民が非常に多かったので自民党が勝ったとは必ずしも言えないようだ。
そんな中で、「デフレからの脱却は無理なのです」という記事[1]が目についた。この表題が言わんとすることは明快だ。対談の中で水野和夫・埼玉大学大学院客員教授はその詳細を下記のように論じている。引用部分を段下げして示す。

日米欧でバブル経済が発生した原因ははっきりしています。それは成長ができなくなったからです。日本は戦後の高度成長期が197374年頃に終わり、45%の中期成長に入りました。その後、80年代に入って成長率はさらに落ち込み、それを覆い隠すようにバブル経済が起きました。
成長が難しくなった米国も、1995年以降、強いドル政策でバブルを起こしました。金融技術や証券化商品がそれに乗っかる形で200708年にピークを迎えたのです。欧州でも、特にドイツが成長できなくなったためにユーロという大きな枠組みを作って南欧諸国を取り込みました。国別で一番ポルシェが売れていたのはギリシャだそうです。強いユーロでポルシェを買ってバブル化していったのです。
日米欧ともに成長ができなくなったからバブルに依存し、いずれも崩壊したのです。バブル崩壊の過程でデフレも起きました。私には成長戦略でバブルの後遺症から脱却しようというのは堂々巡りのように思えます。
国内を見ても、身の回りにはモノがあふれています。乗用車の普及率は80%を超え、カラーテレビはほぼ100%です。財よりもサービスが伸びると言われますが、サービスは在庫を持てないし、消費量は時間に比例します。1日が24時間と決まっている以上、サービスを受け入れる能力には限りがあります。先進国は財もサービスも基本的には十分満たされているのです。
あらゆるものが過剰になっているのです。本来ならば、望ましい段階に到達したはずです。国連の統計では、1人当たりのストックでは日本は米国を上回ります。さらに成長しようというのは、身の回りのストックをもっと増やそうということです。まだ資本ストックが足りない国から見ると、1000兆円もの借金を作って色々なモノをあふれさせた日本が成長しないと豊かになれないというのはどういうことかと思いますよね。
下線を施した部分は何を言っているのだろうか。少々調べてみた。
国連の包括的資産に関する報告書に関する記事[2]の中で、エコノミスト紙は2008年時の国民一人当たりの包括的資産を各国別に掲載した。国別に見ると米国が一番で、日本が二番である。国民一人当たりの包括的資産では日本が一番で、米国が二番となっている。これが引用記事の下線部分、「1人当たりのストックでは日本は米国を上回ります」の意味であることがわかった。

また、このエコノミスト紙の記事が示すところによると、日本は天然資源には恵まれていないが、人的資産が全資産の2/3強を占めていることになる。
ここで用いられている「包括的資産」とは人的資産(教育レベル、職業的なスキル)、物的資産(インフラ、建物、機械、等)および自然資産(土地、地下資源、森林、等)の三つの構成要素から成り立つと定義された比較的新しい用語である。昨年、この包括的資産に関する報告書が国連から発行された[3]。それを受けて、エコノミスト紙が上述の記事を掲載したのだ。経済学と生態学の著名な専門家たち(ノーベル賞受賞者である経済学者ケネス・アローを含む)が集まって学際的な研究活動を続け、持続可能な経済発展をしているかどうかを評価できる指標を検討した結果、この包括的資産という概念に到達したという。例えば、ある記事[4]にこの研究活動に際してふたつの異なる専門分野から集まった研究者たちがどのようにして協力し合うことになったのかについて興味深い内容が報告されている。

この国連の報告書によると、国連大学と国連環境計画国際環境技術センターの研究者たちは対象とする20カ国が1990年から2008年までの19年間に持続可能な経済発展をしてきたかどうかを詳細に調査した。当然のことながら、それぞれの国は違ったパターンを示す。4つの基本的なパターンに分類されるという。
(1)   富の蓄積が行われているだけではなく、自然資産のストックも増加している。つまり、持続可能な富の蓄積が行われる。20カ国の中で日本だけがこの範ちゅうに入る。面白いことに、日本は天然資源ストックを増加させた唯一の先進国ということだ。

(2) 富の蓄積が行われているが、自然資産のストックは減少する。20カ国中の多くの国がこの範ちゅうに入る。ドイツ、フランス、英国、米国、カナダ、オーストラリア、中国、インド、等。
(3) 富が減少してはいるが、自然資産のストックは増加している。該当する国はない。

(4) 富が減少しており、自然資産のストックも減少する。ロシア、ベネヅエラ、サウジアラビア、ナイジェリア、南ア、コロンビアがこの範ちゅうに入る。
この包括的資産という指標は国内総生産(注:ウィキペデアによると、国内総生産はストックに対するフローをあらわす指標であり、市場で取引された財やサービスの生産のみが計上され)とは異なる。一言で両者の違いを言うと、国内総生産は例えば1年間にどれだけの生産を行ったかを示し(フロー)、包括的資産はある期間の蓄えがどれだけ増加あるいは減少したかを示すもの(ストック)。

日本は1990年から2008年の19年間において持続的成長を遂げた唯一の国である。また、それだけではなく、国民一人当たりの包括的資産は米国を抜いて一番である。この国連の報告書は環境破壊が世界規模で進み、天然資源の枯渇が危惧される中、日本はこの事実を誇りに思ってもいいのではないかと示唆するものだ。ややもすると「失われた20年」にどっぷりと漬かったままでいる日本人にとっては、これは小さいながらも明るいニュースだと言えよう。
別の意味では、今後さらに従来方式で富を蓄積し続ける意味はあるのか、別の形態で新しい富を蓄積することはできないのか、といった検討や議論が必要なのではないかと思われる。

また、この包括的資産の三つの構成要素のひとつである人的資産を考える時、人口規模は基本的に重要なファクターとなる。
日本では2007年から2010年の間は人口がほとんど増減せず、12800万人にて静止人口の状態となった。そして、2011年には26万人の減少となった。人口減少はこの2011年から本格化し、日本はこの2011年に人口減少社会に突入したと言われている[5]。今後は毎年確実に人口が減少していくということだ。包括的資産の観点から言えば、この状況は我々の世代としては子孫の世代に対して非常に申し訳ないことである。

一方、人口がとてつもなく大きく経済発展が続いている中国では自然資源の枯渇を防ぐためにどのような施策をとるのだろうか。課題は多く、ひとつひとつの課題を解決すること自体も非常に困難だろうと思う。さらには、中国に続くインドについても同様だ。
日本に関しては、水野教授は「経済的にゼロ成長で十分」であると説いている。しかし、これだけでは政治的にアピールするものが非常に希薄だ。今後の日本をどうしたいのか、どんな国にしたいのかを論じる際には国民に夢を抱かせるものであって欲しいと思う。

「何か答えはあるのでしょうか」との問いに、水野教授は下記のように答えている。

2つ考えられます。もし日本が今でも貧しいとするならば、1つの解は近代システムが間違っているということです。ありとあらゆるものを増やしても皆が豊かになれないというのはおかしいですから。
2つ目の答えは、成長の次の概念をどう提示するかです。日本は明治維新で近代システムを取り入れて、わずか140年たらずで欧米が400年くらいかけて到達した水準に既に達してしまったということです。これまで「近代システム=成長」ということでやってきましたが、必ずしも近代システムは普遍的なものではありません。変えていかないといけないのです。

デフレからは脱却できないでしょう。そもそも成長できなくなったという前提でどうするかを考えなければいけないのです。
日銀の金融緩和への期待で円安が進んでいますが、2000年代初頭に量的緩和で1ドル=120円程度まで円安が進行したことがありました。経営者は120円が続くという前提で国内に工場を作りましたが、今度は70円台の円高になってしまった。経営者の失敗なのに、最近になると六重苦といって円高のせいにしていますよね。今の状況も「円安バブル」を生じさせる恐れがあると見ています。

「成長ができなくなった」という認識は今、米国を始めとして、資本主義社会で顕在化しつつある。その背景には米国経済の凋落があり、ギリシャ危機で始まったユーロ危機が解決を見ないままであり、日本は依然として失われた20年から脱却できないままでいるといった状況が存在する。我々が目にするのは資本主義のチャンピオンが軒並み疲弊している姿だ。
水野教授は、一つ目の解として、「近代システムが間違っているのではないか」と言っているが、これは鋭い指摘だと思う。

最近の政治をみていると、民主主義の限界みたいなものを感じる。現在の民主主義は本来の民主主義にはなってはいないということだ。現在の日本の政治は絶望的だ。こういった認識は私一人だけのものではないと思う。日本のことだけではなく、米国やヨーロッパ各国の政治を見ても同じことが言える。
「では、代替案を出せるのか」というと、何も出せないままでいるのが現状だ。20年程前に共産主義が崩壊し、ソ連邦が解体した。資本主義各国はその優越性が証明されたとして陶酔していたものだ。しかしながら、現在の資本主義社会を見ると、現状のままでは資本主義さえもが崩壊するのではないかとの危惧を拭い切れない。

世界の歴史をみると、ひとつの政治・経済システムはその頂点を極めた後は間違いなく凋落する。違った場所で、違った時代に、これが繰り返されてきたのだ。
OECDの発表によると、中国のGDPは、2016年には米国のGDPを追い越すと予測されている[6]。また、2025年までには中国とインドのGDPの合計額はGセブンの合計額を上回ると予測されている。

今後、短期間のうちに世界の経済的覇権の構図は大きく変化することになる。その潮流を正確に捉えることができない国は新たな国際社会の秩序から早期のうちに取り残されることになるだろう。それを許すか許さないかは現在の世代、つまり、我々の世代の責任であると言わざるを得ない。
ここで取り上げた主題は素人の私にとっては完全に手に余る分野だ。恥ずかしながら、多くのことが理解できないままでいる。様々な専門分野に造詣の深い諸氏のご意見を拝聴したいものだ。

デフレからの脱却は単なる政治スローガンで終わってしまうのか、それとも、日本が見事にデフレからの脱却に成功するのかを是非とも見極めたいなあと思う。

参照:
1デフレからの脱却は無理なのです水野和夫・埼玉大学大学院客員教授に聞く:日経ビジネスオンライン、2013117

2The real wealth of nationsThe Economist, Jun 30th 2012

3Inclusive Wealth Report 2012 Measuring progress toward sustainability Published jointly by UNU-IHDP and UNEP in 2012
4Are We Consuming Too Much?: By Jon Christensen, Conservation In Practice, April-June 2005 (Vol. 6, No. 2)

5人口減少社会元年はいつか?:総務省統計局統計調査部国勢統計課長 千野 雅人、20121128日、www.stat.go.jp > ... > 広報資料 > 統計Today 一覧
6OECD: China’s Economy to Surpass US by 2016: AFP, Nov/09/2012

 

 

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