2013年1月4日金曜日

小さな理由からバージニア・ウルフに親近感を覚えるようになった


あれからもう10年以上にもなるだろうか。バージニア・ウルフの「波」(翻訳本)を読んでいた。数人の子供たちが登場する作品だ。それぞれの子供が体験したことを細かく描写している。ひとつの文章がいやになるほど長いのがこの作品の特徴ではないか、などと作者の仕掛けには無頓着にこちらは勝手気ままにあれこれ思いながら読み進んでいた。

ある文章が赤房すぐりを見つけた子供たちの情景を描いていた。何とはなく眠気さえも覚え始めていた私に、この時、ある新鮮な感覚が蘇ってきた。

梅雨明けの頃、実家の庭先の一角にある赤房すぐりの実が熟する。その季節になると、小さな真っ赤な実が房になって葉陰に見え隠れする。特に西陽があたるころにはあの赤い実は宝石のように輝いてくる。そんな光景が子供の頃の私の関心をわけもなく独り占めにしていたものだ。毎日のように葉陰を覗き込みに行った。僅かに酸味を呈する赤房すぐりの実の味が今でも記憶の中に広がってくる。
その庭先の赤房すぐりの写真を下記に添えてみたい。子供の頃に足しげく通った場所に今もある。一滴、二滴の雨水が見えているが、これはちょうど雨が上がって周りが少し明るくなってきた頃だったかと思う。





この小説に赤房すぐりの描写があったからこそ、私を最後の頁まで読ませてくれたのではないかと思っている。あの描写がなかったら、間違いなく途中で放り出していたことだろう。あの小説の作風には確かに奇抜な感じさえもしていたものだが、どことなく遠くにいるような感じがしていたバージニア・ウルフを初めて身近に感じさせてくれたのはあの赤房すぐりだった。
ブカレストへ引っ越してきてからというもの、家内と一緒にテレビで料理番組を観ることが多い。TVパプリカという番組だ。英国の人気シェフ、ジェイミー・オリバーを始めとして各国から数多くのコックさんたちが出演する。カナダからはチャックも常連の一人だ。「面白いなあ」と思ったのは料理の添え物に赤房すぐりを使うことがある。事実、あの鮮やかな一房の赤い実は雰囲気を一変させる力を持っている。やはり、赤房すぐりの原産地だけのことはある。こちらでは重要な役割が与えられているのだ。

子供の頃の体験を共有することによって、作中の子供たちとの距離が一気に縮んだ感じがした。あの瞬間、作中の子供たちに仲間入りができたような感じだった。さらには、作者についても一種の親近感みたいなものさえ覚えてきた。今考えても非常に奇妙な経験である。たった数行の描写がここまで読み手の心を捉えることができるとは夢にも想像することが出来なかったからだ。
個々の小説を比較するような術は持ってはいないが、小説には冒頭から最後まで一気に読ませる作品がたくさんある。最近読んだイルデフォンソ・ファルコネスの「海のカテドラル」がそういった範ちゅうの小説だった。一日中本から手を放すことができないほど熱中させてくれた。それとは対照的に、この「波」という小説では状況はまったく異なる。それこそ取るに足らないほどの赤房すぐりに関する非常に短い描写ではあったのだが、それが私をしっかりと捉えて最後の頁まで道案内をしてくれた。

一冊の小説とひとりの読者との間にはこんな関係もあり得るのだということを思い知らされた。この出来事の発端が実に些細なものであっただけに、あの時の印象はその意外性とともに今でも新鮮に残っている。

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