2013年2月23日土曜日

ブカレストでの食生活


2010年の9月にブカレストへ引っ越してきてから約2年半になろうとしています。ずっと前からブカレストに住んでいた妻や娘は私のために様々な料理を作り、私の味覚や食欲を満たそうと気を配ってくれます。そのような料理のひとつにルーマニア料理の「焼きナスのサラダ」がありますが、これはブログにも掲載しました(2011822日、「夏の味覚、ルーマニア風ナス・サラダの作り方」)。夏の料理として私の大好物のひとつです。
今日は素人目から見たブカレストの地でのお料理について記してみたいと思います。あまり役に立つとは思えませんが、ご興味がありましたら読み進んでください。テーマに応じて日本との対比を交えながら進めてみようと思います。
 
今年の冬は昨年のそれとは打って変わってかなりの暖冬となりました。まだ2月だというのに、地上の雪はすっかり消えてしまい、この冬はもう終わりという気配です。今冬は、コニャックを入れた紅茶が私たち家族の日曜日の定番となりました。紅茶そのものはしばらくの間は老舗ロンドンのトワイニングズ社のモーニング・テイーとアール・グレイ・テイーでした。それらのふたつの缶が空になった今はセイロンのバシラーが登場しています。ジャスミンが添加されたこの製品の名称はプレゼント・ゴールド。ジャスミンやバニラなどの香料がブレンドされたものは芳香が素晴らしいです。濃い琥珀色の紅茶に砂糖を入れよく溶かしてから、レモンを絞り込むと紅茶の色は少し薄くなりますが、これは何らかの化学反応が起こっているようです。最後にコニャックをテイースプーンに二杯ほど加えますと出来上がり。コニャックにも様々な種類があります。最初はマーテルでしたが、次はヘネシーのVSOPとしました。やはり後者の方が芳香が良いということで私たち三人の意見は一致しています。クールボアジェもいいかと思います。何はともあれ、紅茶そのものが持つ香りとコニャックからの芳香とが一緒になって醸しだす香りと味は、日曜日の朝時間を忘れて紅茶の味に耽溺するのには最高です。気分を新鮮にしてくれ、それと同時に体をホッカホカにしてくれます。ロシアの人たちがレモン・テイーをこよなく愛することがよく理解できます。

イラクサの群落:ウィキペデイアから

早春の頃、私の大好物はペースト状に調理した野草の一種、イラクサ。これは信州の蕗のとうがそうであるように、春独特の季節の味。ブカレストの人たちは冬の間の野菜不足に陥り勝ちだった食生活に対して、春になりますと伸び始めた柔らかなイラクサ(ルーマニア語ではurzici、ウルジッチと読みます)を調理して食べます。イラクサを食べることによって「血液が浄化される」と言っています。この頃ピアツ(市場)へ出かけますと、そこいらじゅうがこのウルジッチでいっぱい。つまり、それだけやくさんの消費があるということです。ウルジッチのペーストの外観は、日本の草餅に用いる茹でた「よもぎ」をペーストにしたような感じです。味を調整するにはタマネギ、デイル、若いタマネギの葉、ニンニクなどをみじん切りにして加えます。ニラも効果が抜群だと思います。普通はパンに塗って食べるのですが、早春の野草の香りが何とも言えません。
春の柔らかな芽が広がったばかりのイラクサとは言え、その名が示すとおりトゲがあって素手で触るとチクチクと痛むような感じがしますが、ホウレンソウの代わりにいろいろな料理に使えます。ビタミンCも豊富です。これはヨーロッパの全域で春の食材として人気が高いようです。
 
行者ニンニク:ウィキペデイアから。花の様子がニラの花とそっくり!行者ニンニクもニラも分類学的には同じネギ属だからです。

行者ニンニク(ルーマニア語ではleurda、レウルダと読みます)の葉もピアツでよく見かけるようになります。一ヶ月間位は入手可能。これも血液の浄化作用を担う貴重な食材です。日本でも山菜の一種ですよね。
蕗のとう:ウィキペデイアから。

 
この頃までには日本では蕗のとうの季節が過ぎているでしょうか。蕗のとうについては私もブログ(201256日の「ブラショフへの旅」)に書きましたが、ルーマニアでも見かけました。ブラショフへ旅行した際にはシナイアでかなり伸びた蕗のとうを観察しました。また、ブカレスト市内の植物園でも見かけています。当地では、花の色はこの写真にあるような白い色ではなくて赤紫色のようです。
 
蕗のとうは、当地では、食材としての使用はまだ確認できていません。インターネットで調査した結果では、食用としては見つかりませんでしたが、蕗の根からの抽出物については薬用としての様々な効果が報告されています。例えば、偏頭痛、リューマチ痛、椎間板ヘルニアの痛み止め、等。
初夏にはさくらんぼが出回ってきます。旬の頃になると値段も下がって、1キロとか2キロとか買ってしまいます。この行動は、相対的にかなり高価な日本のさくらんぼに対する報復行動ということかも知れませんね。
ラズベリー(長野にて)
 
さらに、ラズベリー(ルーマニア語ではzmeura、スメウラと読みます)が出回ってきますと、我が家では毎日の食卓に欠かすことができない品目となります。単独で食べても美味しく、メロンやスイカ、マンゴ、オレンジ、キウイなど他の果物と一緒にしても存分に楽しめます。6月から7月の頃です。ラズベリーが出回っている期間が短いのが残念です。ピアツに出始めたばかりの頃はかなり高価です。
 
秋は何と言っても生ブドウです。かなりの期間、年末まで楽しめます。甘みが十分についたブドウは甘過ぎると感じる人がいても不思議ではない程に甘味が強いのです。特に美味しいのは、私の場合、「ハンブルグ」という種類です。日本には「巨峰」という素晴らしい生食用のブドウがありますが、私だけの理解かどうかは確信ありませんが、日本ではハンブルグを見たことがないのです。こんなに美味しい種類のブドウを日本ではなぜ栽培しないのだろうかと何時も思ってしまいます。 
秋が深まってきますと、輸入物の柿が登場します。面白いことに店頭の表示は「kaki」となっていました。当地ではスペイン産がスーパーマーケットに並び始めます。日本の「百匁柿」に似た大型の甘柿。季節の始めには一個が6レイ(150円前後に相当)と比較的高価でしたが、段々と値段が下がって当初の1/4位になりました。12月も下旬になると、柿の実は柔らかくなってきます。この頃が食べ時です。購入後さらに熟成させておきますと、柔らかすぎて皮をむくのがちょっと面倒になってきて、時にはスプーンですくって食べることになります。そんな時期の柿の美味しさはまた格別。昨年は12月の末に購入したものが最後のチャンスとなりましたが、我が家では1月の中旬頃まで堪能しておりました。この頃の柿はその甘さ、香り、質感と三拍子揃っており、どれをとっても形容が難しい程です。「果物の女王」とでも命名したい程の美味しさです。
柿の実(これは渋柿。長野にて)

 故郷の信州では晩秋になりますと、葉がすっかり落ちてしまった柿の木に無数の実がなっている光景にぶつかります。青空を背景にして橙色に輝く柿の実は私にとっては秋の風景を代表する大事なひとこまです。


 
サルマーレ(ロールキャベツ)は私の大好物
上記には四季折々の味を簡単に纏めましたので、ここからは四季を通じてのルーマニア料理を考えてみましょう。
私のルーマニアとのお付き合いは、初めてルーマニアの土を踏んだのが1972年でしたから、暦の上ではもう40年となりました。その間、ルーマニアへは何度も出入りしていますが、そんな時に決まって私の方から注文するのはサルマーレ(samae)です。


ブラショフのレストランにて。
 
特に、ひき肉に細かく刻んだ玉ねぎやお米を混ぜて一緒にし、キャベツの葉で包み、何時間もかけて煮込んだサルマーレは逸品です。ひき肉は牛肉と豚肉とを半々にしたものですが、豚肉は脂肪分が入っていないとあの独特の味がでません。また、個々のサルマーレを鍋に並べて、煮込む際にはベーコンも加えます。味を最終調整するためにこれは必須です。
 
キャベツの葉の代わりに葡萄の葉を使うサルマ-レもありますが、何故か私は当地で伝統的な塩漬けのキャベツの葉を使ったものが好きです。塩漬けのキャベツは使用の前に2日間ほど水につけて塩抜きをする必要があります。当時、家内の母が作ってくれたサルマーレを10数個も食べたといって、我が家では今でも伝説のように語り継がれています。私の方からは特に釈明することはないのですが、強いて言えば、サルマーレの数は一個一個の大きさが何時も同じというわけには行きませんので、小粒に作れば必然的にこちらが食べる個数は増えてしまいます。キャベツの玉が小さいと個々の葉も小さいので小型のサルマーレになってしまいます。サルマーレは年がら年じゅう何時でも調理します。
ただし、サルマーレは美味しいので食べ過ぎることがないようにくれぐれもご注意の程を!
また、塩漬けのキャベツが手に入らない場合は、生のキャベツを湯がいて、キャベツを柔らかにさせてから調理に使います。
サルマーレは語源的にはトルコ語のsarmaから由来しており、「包む」という意味だそうです。サルマーレは各国で代表的な料理のひとつとなっているようで、バルカン半島一帯からトルコさらにはアラブ諸国まで、ならびに、ロシアやウクライナ、ポーランドからドイツやフランスへと、ヨーロッパ全域にわたって広がりがあると言われています。また、地域性によってその材料や作り方は非常に多様だとも....
ミッチ(mici)またはミテテイ(mititei
オリジナルはアラブ世界の「カフタ」がトルコを経由してルーマニアへ入って来たと言われています。ひき肉を太さが2-3センチで長さが10センチ前後にした、皮のないソーセージみたいなものです。これをグリルの上で焼きます。アラブ圏では羊が専ら使用されるようですが、ルーマニアでは、牛肉、あるいは牛と豚の合せ挽き、牛と羊の合せ挽きの3種類が代表的なものとなります。私たちは牛と羊との合せ挽きを好んで使っています。グリルで焼きますから、脂分は焼いている間にその多くが落下してしまいます。
 
グリルで焼くミッチ:ウィキペデイアから

 
辛子を付けて食べます。また、何と言っても、ミッチには冷えたビールが欠かせません。時間がない方たちのためには、ミッチはスーパーで年がら年中入手することが可能です。

お米
ブカレストではルーマニア産のお米が何時でも手に入りますが、最近は韓国食材の店でお米を買ってきます。5キロとか10キロ入りの袋で買います。日本の銘柄米と比べてもまったく遜色がないので、大満足です。
ブカレストにはDami Korean Restaurant(場所はBlvd. AerogariiBlvd. Ficusuluiとの交差点の北東側の角)という韓国料理のレストランがありますが、そこでは様々な食料品も販売されています。私たちはお米や韓国味噌、醤油、米酢、豆腐、海苔、蕎麦、ラーメンなどを購入します。キムチの素も購入できますし、私にとっては最も大事な韓国の濁酒(マッコリ)を手に入れることができます。面白いことに、マッコリは家族全員で楽しめる貴重な存在になっています。特に、暑い日には冷やしたマッコリは爽快そのもの。
スーパーにはさまざまな魚が並んでいますが、私たちの経験ではドラーダ(dorada)という地中海産の魚が焼き魚としては最高です。店頭にはイタリア産が何時でも並んでいます。人気が高いのでしょう。一度試してみてください。ただし、鯛の仲間の様ですから骨がたくさんありますので、ご注意を。
ある時、「刺身用に生の鮭を購入するには衛生面からみてどの店が一番信頼できるでしょうか?」とプロの方に聞いてみました。その方は「METROが一番いいでしょう」と、快く返事をしてくれました。こうして、私たちはMETROで鮭を購入し始めたのです。野菜売り場ではアボカドやキュウリを買ってカリフォルニア・ロールの準備をします。自分で海苔にご飯を乗せ、鮭やアボカドおよびキュウリを加えて、巻きながら食べるのがひとつの楽しみにもなっています。我が家では生の鮭がブカレストで寿司の気分を味わう貴重な食材となっています。最近はREALでも購入しています。
牛、豚、羊、鶏、七面鳥が通常手に入ります。私たちの場合は羊や七面鳥は稀ですが、他の三種類の肉は日常的に消費します。私個人としては今後は羊や七面鳥も多く消費したいと思っています。子羊の肉は春の復活祭にはなくてはならない象徴的な食材です。また、牛タンが思いのほかに美味しいことが私にも分かってきました。特に、ネギやオリーブの実と一緒に煮込んだ牛タンは逸品です。正直言って、この美味しさは最近になるまでまったく気が付かなかったのです。
肉料理は調理する前の処理にコツがあるようです。例えば、牛肉は前の晩に漬け汁に漬け込んでおきます。料理の味はこの漬け汁次第のようですので、工夫する必要があります。漬け汁の材料のひとつである酢についても幾つかの種類を準備しておきます。リンゴ酢、米酢、ワイン・ビネガー、バルサミコ、等。これらの他に、日本酒やみりん、ワインも戦列に加わってきます。また、調味料も重要です。
家内の料理を側で見ていますと、もうひとつ重要な点はソースです。家内はこの漬け汁とソースにかなりの時間をかけています。ソースを作る時はさまざまな調味料が必要ですので、日頃からの調味料の収集が大事になってきます。先日はカルダモンの種子を手に入れたばかりです。様々な調味料の中で最も高価なものは何と言ってもサフランでしょうか。
珍しい食材
日本ではあまり使われていない食材ですが、当地ではごく普通に使われているものもあります。
カリン:果物のカリンですが、当地ではこれを料理にも使います。
ザクロ:野菜サラダやミックス・フルーツに使います。また肉料理の調味料としても使っています。
ルーマニアではワインとツイカを語らないわけにはいきません。
ワイン作りは古い歴史を持っているようです。ルーマニアの黒海沿岸には古代ローマの遺跡がたくさんあります。古代ローマ帝国が黒海沿岸で植民都市を作っていた頃、皇帝に仕え、大臣級の地位を築いていたのが皇帝にワインを注ぐ専門職だったそうです。きっと、この地でワイン作りを行い、ワインに詳しい人たちがそういった専門職についていたのでしょう。
ルーマニアでのワイン作りの歴史はヨーロッパ各国でのワイン作りの歴史よりも古く、今から6000年前にまで遡ると言われています。上記の古代ローマ時代よりも遥かに古くからワインの生産が行われていたことになります。古代ギリシャ神話にはぶどう酒の神デュオニソス(ローマ神話ではバッカス)が登場しますが、デュオニソスは現在のルーマニア南部からブルガリア一帯にかけて勢力を持っていたトラキアという国に生まれたと言われています。このトラキア人の一派であるダキア人が現代ルーマニア人の祖先。ラテン語でのダキア(Dacia)はルーマニア語では「ダチア」と読みます。古代ギリシャ人にはゲタエ(Getae)人の名で、古代ローマ人にはダキア(Dacia)人の名で知られていたとのことです。
これらの逸話はルーマニアのワイン作りの伝統をよく物語っているのではないでしょうか。
この地に生活している今、どの料理にはどんなワインが合うのかを理解したいと思います。豪華な料理が出来上がった時、それに最もよく合うワインを添えてみたいと思いませんか。
私たち家族全員が好きな銘柄はデザートワインのタミオアサとかブスヨアカです。また、私個人としては赤ワインではフェテアスカ・ネアグラ、メルロー、ピノノワール、白ではソーヴィニオン・ブランです。試してみたい銘柄は他にもたくさんありますが、生産者や生産年との組み合わせを考えますと気が遠くなりそうです。
ツイカという地酒があります。これは蒸留酒です。
田舎の方へ行きますと、自宅の周辺にたくさんのスモモの木を持っているお宅があります。きっと、毎年のようにツイカを蒸留しているのではないでしょうか。それぞれのご家庭では手作りのツイカが自慢の種となります。普通はアルコール度が30度前後あって日本の焼酎のような感じですが、ひとつ大きな違いがあります。それは独特な果実の芳香です。この香りが何とも言えません。そして、2回の蒸留を経たものは50-60度くらいの強いお酒となります。
先日、かってクルテア・デ・アルジェシュで一緒に働いていた時の同僚から彼が丹精を込めて作ったツイカをいただきました。その味はまだみてはいないのですが、彼の自慢のツイカであるに違いありません。どんな味わいなのかが楽しみです。
 
 

2013年2月17日日曜日

乗っ取られたシリア革命


反政府勢力の腐敗した指揮官たちがシリアの自由の夢を台なしにした


最新の報道[1]によると、シリア革命の内部矛盾が表面化してきている。

反政府勢力は果たして革命軍なのか、それとも私腹を肥やすための単なる略奪者なのか、混迷は深まるばかりだ。目下のところ、これがシリア革命の現状のようだ。反政府勢力の指揮官たちに今何が起こっているのか?

この報道記事の部分的な仮訳を下記に示してみたい。引用部分は段下げして示す。

反政府軍の指揮官の一人であるアブ・マフムードは部下の間ばかりではなく人々の間でで人望がある。しかしながら、彼の顔は暗い。多くの仲間の指揮官たちが悪辣な行為に走り、反政府活動をひどく傷つけているからだ。

「シリアの本来の意味での革命はもう終わった」と、アブ・マフムード指揮官は言う。

アブ・マフムードはシリアのアサド政権に対して革命を起こそうと挑んできたものの、反政府勢力側の最近の戦い方については苦々しい思いを抱いている。「俺たちが思い描いた美しい革命は今や盗賊や略奪者たちによってすっかり乗っ取られてしまった」と、自分の気持ちを隠そうと懸命に努力しながらも、彼は胸の内を明かしてくれた。

「反政府側の幾人もの指揮官たちは、恥ずべきことに、最前線で命を落とす真の意味での革命者たちを犠牲にして自分の私腹を肥やしている」と、彼は言う。

シリアの反政府派が支配する地域では中心的な反乱勢力によって行われた略奪や腐敗行為に関する報道が絶えない。その数は増える一方である。上記のアブ・マフムードの批判はその現状を裏書きするものと言えよう。

「反政府活動の初期の頃に銃を取り上げてアサド軍に立ち向かっていった連中の多くが今やその戦闘を放り出しつつある。指揮官たちの腐敗ぶりに失望したからだ」と、彼は説明する。

「何処へでかけても、そこで略奪を行い、持ち運ぶことが可能でトルコの闇市場で売れるような物は何でも盗む。その対象は自動車から始まって、エレクトロニクス製品、燃料、骨董品など。他にもいくらでも例を挙げることができる!」

アサド政権の軍隊と戦闘をしている反政府勢力では中核的な存在である自由シリア軍(FSA)に属する10人以上もの指揮官の名前を挙げて、彼らはイドリーブやアレッポの両県でこのような行為を繰り返していると彼は言う。

例えば、ある指揮官は100人もの戦闘員を擁し、アレッポ地域の空き家になったアパートを「家宅捜索」することで有名だ。彼は武器や自動車だけではなく国境沿いのバブハワの町にある自分の事務所さえも売却して、瀟洒な家を二軒も建てた。今は三番目の妻を迎えようとしている。

「問題はこれらの指揮官たちの多くが外国からの支援を受けていることだ。」

ここには、内側から見たシリアの反政府勢力の実態が生々しく報告されている。海外からの財政支援が続くかぎり、ここに報告されているような指揮官たちの腐敗振りは継続することだろう。彼らの最大の目標は国家の平和とか民主主義の確立といった政治目標ではなく、短期的な尺度での金銭的利益が優先されるからだ。これこそが「戦争屋」と呼ばれる所以だ。

30代のアブ・マフムードは政府軍の将校であったが、反政府軍側へ投降した。今は「309大隊」の指揮官を務めている。大隊とは言え戦闘員はたったの35名で、オリーブの林の中にテントを設営し、そこに宿営している。

彼はその正直さでよく知られており、部下の戦闘員たちは彼の勇気や彼のつつましいライフスタイルを賞賛している。それは彼のおんぼろの4輪駆動車を見れば一目瞭然だ。

彼の小さな部隊はその地域のいたる場所で戦闘をした。最近はアレッポだった。あの戦闘は昨年の7月以降でも最も激しいものとなった。

「俺たちは敵から奪った7丁のカラシニコフだけで闘ってきた」と、アブ・マフムードは誇らしげに語る。

「俺の戦闘員は7人づつ交替で前線で闘った」と彼は言う。でも、過去数ヶ月の間に3人も失ったとのことだ。

彼の部隊はFSAの前最高指揮官であったムスターファ・シェイクから幾らかの金を貰っていたものだが、この支援は今や途絶えている。

「前線では俺たちは将校たちからある程度の銃弾を譲ってもらったことはあるが、武器や金を受け取ったことはない。俺たちは畜殺場に送られる羊のように前線へ送り出されたものだ。前線では食べるものもなかった」と、幻滅を味わいながらアブ・マフムードはしゃべる。

「俺たちは一体誰のために戦っているのか?自分たちの国のため?それとも、シリア人からいろんな物を略奪し、ひそかに革命の梯子を登りつめようとしているあの連中のためにか?」

この司令官の悩みは深刻だ。周りにはあまりにもたくさんの略奪や不正義がはびこっている。それを助長するのが国外から流れ込んでくる潤沢な資金だ。そして、内外の戦争屋がその資金に群がり、集まってくる。そのような状況では、反政府革命という政治的目標は必然的に希薄になってしまう。

アブ・マフムード指揮官にとってはシリア革命は外からやってきた戦争屋やイスラム聖戦士団にハイジャックされてしまったという実感や現状に危機感を抱く彼の気持ち、あるいは、焦燥感がはっきりと伝わってくる。

アブ・マフムードは他の反政府派部隊からの合流の誘いには応じなかった。

「自分に合う正直な連中が見つからなかったからだ」と、彼は言う。政府軍に対して最も激しい攻撃を行った聖戦士団(ジハード)の連中の政治的な目標に関しても疑念を感じるようになった。

聖戦士団の独自性や政治的目標には懐疑的な姿勢を保ちながら、「こういった連中を連れてくるイスラム勢力も問題だ。彼らは俺たちが理解しているようなイスラム教徒ではない」と、彼の話は続く。

何人かの部下は彼のもとから離れたが、残った他の連中は「村で働いている」と、彼は言う。

「今日はこの村で静かに暮らしているが、俺たちの気持ちは前線にあるんだ」と、309大隊の指揮官は言う。

「俺たちは革命を放り出したが、革命は俺たちを手放しはしないだろう。闘う時が来れば、何時の日にか俺たちを必要とする日がやって来るかもしれない。」

正直者のアブ・マフムード指揮官よ、貴君の出る幕が必ずやって来ると思う。今は自分の命や部下の命を無駄にしないで欲しいと願うばかりだ。他国の政治的な思惑に振り回されずに、自分たちの国の再建の方向は自分たちで決めて、一日でも早く国家再建に邁進してくれ!
 

参照:

1Revolution Betrayed: Corrupt rebel leaders confiscate Syria dream of freedom: By Herve Bar - ATME (Syria), Information Clearing House, Feb/13/2013



 

2013年2月16日土曜日

イラク戦争をほとんど回避させるところまでいった女性がいた


2013年は早くも1ヶ月半が過ぎた。この2013年はイラク戦争の開始からちょうど10年だ。イラク戦争はイラクが所有する大量破壊兵器を探し出し、それらを破壊しなければならないとして開始された。しかしながら、世界の人々はこの10年間にイラク戦争の裏に秘められた、驚くべき真実を学ぶことになった。イラクには戦争の理由として喧伝されていた大量破壊兵器は存在してはいなかった。イラク戦争を推進した米国の真の目的は石油の確保であった。
この真実は究極の偽善とでも形容すべき、すこぶる後味の悪いものとなった。
当初からイラク戦争に反対していた主流のメデアがある。米国の主な新聞はどれも政府を後押ししたが、英国ではガーデアン紙が批判的な立場を貫いた。日本では、ガーデアン紙の主張がどれだけ一般読者に紹介されていたのだろうか。検証したいけれども、部外者の私にとってはとても手に負えない課題だ。
キャサリン・ガンは国連を舞台にして行われようとしていた米国の不正義を見過ごすことができずに、個人の立場で機密情報を公開した。勿論、これがもとで彼女は英国の政府機関に働く職員としてのキャリアを失うことになった。
少なからずの人たちは本件についてすでにご存知かもしれない。私は最近になって初めてこの情報に接し、大変な感銘を受けた。イラク戦争からちょうど10年となったこの2013年、あらためて本件についておさらいをしておきたいと思う。
彼女がどのようないきさつから一個人として機密情報を公開することになったのかを伝える記事[1]がある(20083月の記事)。その仮訳を下記に示したいと思う。引用部分は段下げして示す。
イラク戦争から5年目の記念日に語られたさまざまな話題の中に重要なエピソードがひとつある。それはイラク戦争に向けてその準備が着々と進められていた時期に起こったものだ。その詳細は殆ど報告されることもなしに今まで放りっぱなしにされてきた。まったく言語道断なやり方で進められ、外交の基本的原則や国際法にも矛盾する出来事を目撃した若い女性の話である。彼女は英国の女性で、当時29歳、中国語を専門とする翻訳家として仕事をしていた。彼女の名前はキャサリン・ガン。彼女は英国の諜報機関である政府通信本部(GCHQ)に勤務していた。
2003131日の金曜日、彼女や多くの同僚たちは米国政府から一通の要請を受け取った。その要請とは国連での諜報活動を「活発化」して欲しいというものであった(後智恵ではあるが、この「活発化」という用語の選択が非常に興味深い)。要するに、安全保障理事会でイラク戦争を承認しやすくするために、米国はニューヨークの国連本部でスパイ行為を強化するよう指示を出したのだ。その電子メールによると、イラク戦争に国際的な承認を取り付けようとする非常に重要な決議案についてそれぞれの理事国と交渉するに当たって、何としてでも米国にとって有利な状況を作り出す点にその目的があった。大義名分がない限り多くの人たちはこのイラク戦争は合法的ではないと信じていたからだ。
この電子メールは英国のGCHQに相当する米国の国家安全保障局内の「地域目標」を担当する部署の責任者、フランク・コーザという人物から送付されてきたもの。この作戦は6カ国を目標にしようとしていた。つまり、チリ、パキスタン、ギニア、アンゴラ、カメルーンおよびブルガリアだ。これらの6カ国はいわゆる「スイング国家」と称され、安全保障理事会の非常任理事国であり、決議案を通過させるにはこれらの国々の投票が重要になってくる。また、メモには記載されていないものの、チリや他の南米諸国に大きな影響力を持つメキシコも、後に、このリストに追加された。事実、この作戦は非常に広範にわたって実施され、「活発化」の対象にはしないと明記されていたのは英国だけであった。
コーザは「各国が関連決議案についてどのような投票をするか、考慮の対象とするかも知れない政策や交渉上の立場は何か、各国間の協調・依存関係はどんなか、等」についてしつこく求めてきた。その纏めでは、彼は次のような文言を付け加えている。「米国の目標に好都合となる結果を導くため、また、想定外の事態が発生することを阻止するために、有利となる状況を米国の為政者に与えることができる情報はすべてを収集すること。」この作戦範囲は非常に広範囲にわたる。つまり、「安全保障理事会での審議・討論・投票と関連性があって、有用と思われる事柄はすべてを検証し、安全保障理事会のメンバー国の国連関連の通信ならびに国内通信のすべてに注意を払うこと」とした。
キャサリン・ガンに戦慄が走った。この電子メールを見てふたつの点でぞっとした。まずは、この作戦の低俗さだ。明白なメッセージとして、英国ならびに米国がニューヨークの外交官を脅迫するのに役立つような個人情報を収集することを英国のGCHQは求められているのだ。ふたつ目に、もっと大事なこととして、GCHQは国連の民主的なプロセスを踏みにじるよう求められているのである。
秘密の電子メール:
上記の電子メールを受領した週末以降、キャサリン・ガンは行動に移った。23日に職場へ復帰した際に文書をコピーし、彼女はそれを自宅へ持ち帰った。反戦運動に関与している人たちを彼女は知っており、メデアとコネのある友人に本電子メールを送付した。この友人はさらに本電子メールを新聞業が盛んなフリート通りでかって勤務していたジャーナリストで、2001年にタリバンに捕まって一躍有名になったイヴォンヌ・リドリーに送付した。この頃までには、リドリーは著名な反戦活動家となっていた。当初、ミラー紙に接触したものの、同紙はこの電子メールを検証することができなかった。次に、リドリーは当事オブザーバー紙で仕事をしていた私(マーチン・ブライト)に電話し、例の電子メールを検討してくれと頼んできた。
このコーザのメモは新聞社にいた私や私の同僚たちに幾つもの疑問点を提起した。まず第一に、オブザーバーは当時イラク戦争を支持していた。第二に、この電子メールの検証をどのように行うかという難問があった。コーザ・メモは単純に言って本文だけであり、電子メールのヘッダー部分に通常ある身元を証明する情報は欠如していた。理屈から言えば、本文だけだったら誰でもそれを作成することができる。コーザの名前は信ぴょう性を伺い知らせる他の情報と共に裏面に記載されてはいたが、でっち上げの可能性を否定することはできなかった。キャサリン・ガンが直接自分でやっては来なかったという事実についても、私たちはつまずいた。といった具合で、情報を検証するために情報源に遡る具体的な方法が見当たらなかった。
当事オブザーバー紙の防衛担当記者だったピーター・ボーモントがこのメモに使われている文言がNSA GCHQの文言と整合するかどうかを検証する手筈を整えてくれた。
とは言え、依然として疑念は消えなかった。諜報関係者のひとりは、これは非常によく出来たロシアからの偽物ではないかと言った。他の専門家はGCHQ 内の反戦分子を追い出すために英国のスパイ組織のトップがこれを書いた可能性があると言った。結局、NSAからは「ノーコメント」という返事を何回も受け取っていたが、その後当時我が社の米国担当記者を務めていたエド・ヴァリアミーがメリーランド州にあるNSA本部へかけた電話が、幸運にも、コーザ自身に繋がったのだ。この通話がコーザという人物が実在していることを実証した。ここで始めて、我々は「この電子メールは本物だ」という確信を得た。オブザーバー紙はイラク戦争を支持する立場にあったとはいえ、当事の編集者ロジャー・アルトンはこの素晴らしい記事を反故にする積りはまったくなく、200332日、国連に於ける米国の卑劣な行為についての記事を出版した。
ここに述べられているオブザーバー紙の当事の編集者の態度も実に興味深い。そこには客観性を重んじるジャーナリストの矜持みたいなものがある。編集者の態度が非常に重要であることは間違いない。潜在的に如何に重要な記事であっても、最初から社内で編集者の厚い壁に突き当たるような新聞社ではその記事は陽の目をみることは出来ないだろう。そのような新聞社では真のジャーナリズムを期待することはできない。
この報道は世界中を駆け巡り、チリでは1970年代に米国のこの種の卑劣な手段に見舞われていたことからあらためて怒りが爆発した。メキシコも同じ程度に不快な気分に襲われた。両国はこの新事実を知ったが故に、安保理事会でのふたつ目の決議案に対しては距離を置くようになった。他の国々は米国の甘言や弱いものいじめに対してそれ程厚かましく振舞うことはなかったが、情報がリークされてから数週間で、安保理では新しい決議案が採択される見通しはもはやなくなっていた。
これらの非常任理事国の動きは非常に重要なものとなった。そこにはイラク戦争の正当性を疑う健全な洞察があった。米国が入手したかった安保理の決議案は流れた。この結果はキャサリン・ガンの行動がなかったならば実現しなかったかも知れない。その可能性を考慮すると、彼女の行為の重要さがよく理解できる。
「国連」と言う言葉からは世界各国が集まって世界の平和のためにすべての参加国が協力しているかのような錯覚を受ける。事実、そういう場面は多々あることだろう。また、あって欲しい。さらには、国連の決議案は崇高な世界平和を目的としたものであるかのような錯覚にも陥りやすい。
しかし、ここに報道された内容はそんなものでは決してない。おどろおどろしい覇権国による「力の世界」だ。国連は、時には、大国が自国の軍産共同体や多国籍企業の利益を追求するためになりふり構わずにブルドーザーのごとくゴリ押しをする檜舞台となる。ここに引用した記事はそのような実態を余すことなく伝えてくれた。
この状況は1ヶ月前に書類を手にしてGCHQから帰宅した際にキャサリン・ガンが心に描いていた状況そのものであった。しかしながら、彼女には予想することも出来ないことがあった。それは米国のブッシュ大統領自身の思考そのものだ。国連安保理の決議案のあるなしに拘らず、ブッシュ大統領は戦争を始めることに決めていた。
オブザーバー紙に記事が掲載された日の数日後、キャサリン・ガンは国家機密法のもとで逮捕され、約1年後にはNSA文書をリークした罪で法廷に引き出された。しかし、事態は劇的な反転を見せた。当時の検察庁長官であったゴールドスミス卿は、この件が証拠を必要としないほど明白な国家機密法の抵触であったにもかかわらず、最後の瞬間になってこの告訴を引き下げた。こうして、キャサリン・ガンは自由の身となった。
検察庁は最後の段階になって何故翻意したのであろうか。この記事によると、
検察側は「キャサリン・ガンを有罪とする現実的な見通しがもはや立たない」と述べた。その理由は、キャサリン・ガン自身が機密文書を漏洩させた罪を認めていたことを考えると、まったく不可解だ。彼女に残された弁護の方向は「必要性の弁護」を適用するだけとなった。この「必要性の弁護」という概念の下で、彼女の弁護士は「何千・何万もの人命を救うために必要になった犯罪だった」と主張することができただろう。
必要性の弁護」は英国では医療の世界では比較的多く見られるという。しかし、他の分野では適用されたケースは稀である。イラク戦争では何千もの兵士が命を落とすことが予見され、彼女の行動はそれを阻止するためのものだと主張し、彼女を弁護することができた。
キャサリン・ガンの弁護側がイラク戦争の正当性に関して法理的にどう考えるかを公にするよう要請したことから、ゴールドスミス卿は本件を引き下げたとする推測があった。後に明らかになったように、彼の法的見解は国連において二番目の決議文の見通しが消え去ると共に大きく揺らいだ。
これらの専門的な法律用語を読み進めてみると、この検察側の措置は英国政府の驚くべき自白を反映したものであったと言わざるを得ない。キャサリン・ガンの行動は全面的な賞賛に値するものだった。彼女は戦争を止めるために本当に行動を起こしたのだ。

彼女の倫理観には脱帽である。これはそう簡単に実行できることではない。多くの人たちには出来ないことを彼女は自分の自由意志で決断し、その決断を行動に移した。そういうキャサリン・ガンに拍手を送りたい。
民主主義の「民主」とはキャサリン・ガンのような個人的な政治的覚醒を必要とするのではないだろうか。
今の日本には、内政にせよ対外的な政治にせよ、重要課題が山積している。何故に解決しないのかと問うと、その理由は最終的には自分自身の責任に辿りつく。個人個人の政治的覚醒の甘さが現在の政治的混沌を招いているのではないだろうか。このキャサリン・ガンの行動とその行動を支える論理には自分たちの血を流して民主主義を勝ち取った国ならではの個人としての徹底した意識が感じられる。
もうひとつ忘れてはならないのは安保理の非常任理事国の各国が冷静に状況を判断していたことだ。当然のことを当然のごとく行動した点が実にいいと思う。

 

参照:
1: The woman who nearly stopped the war: By Martin Bright, New Statesman, Mar/19/2008