2013年10月2日水曜日

シリア革命 - 我々はどうして失敗したのか


シリア紛争に関するブログが何本も続いてしまった。正直に言うと、個人的には、ここ1ヶ月から1ヵ月半にシリア紛争を巡って起こった政治的出来事には何か興奮させるものがあったように思う。今日も、シリアに関してもうひとつ掲載してみたい。
 


               

民主化を要求し、政府に対する抗議行動はあくまでも平和的な形をとる「シリア革命」であった。少なくとも、始めの頃は。

しかし、それがいつの間にか「武力紛争」に化けてしまった。最近では化学兵器の使用にまで発展し、過去2年半の累積死者数は10万人を超すとさえ報告されている。そして、反政府派の兵士の70-80%はアル・カイーダと何らかの関係を持っていると言われている。民主化を標榜していた政府に対する平和的な要求行動は、どこかの時点で、シリア政府の打倒を求め、武器を振り回す過激派たちの檜舞台と化してしまった。

ここに紹介したい記事[1]はもう4ヶ月も前のものではあるが、そのような厳しい現実が続く中、アレッポに住む著者は「我々はどうしてシリア革命で失敗したのか」と自問自答する。著者はシリア革命の渦中に身を置き、夢を追い、同じ思いを抱く仲間たちとシリアの将来を論じ合った。そして、ある時点で革命は横取りされてしまった。著者は最初の頃から現時点まで、シリアの政治的混乱や武力紛争の一部始終を観察してきている。その過程の多くを振り返ることができる貴重な一人であろうか。

アレッポに住む著者の胸中には、今、どんな思いがあるのだろうか。

この記事を仮訳し、下記に示したいと思う。引用部分は段下げして示す。


結局、いったい何がうまく行かなかったのだろうか。もっと正確に言えば、われわれはいったい何処で間違ってしまったのだろうか。かっては自由と基本的人権を求めようとする感動的で気高い民衆の蜂起であった。しかし、その方向を見失い、何時の間にか凄まじいばかりの宗派間の流血沙汰と化し、その堕落振りは獣にさえもそぐわないような状況になってしまっている。何故だろうか。このような変化は何とか回避することができなかったのだろうか。このような事態になる必要はまったくなかったのではないか。
 

上記の質問に対する答えは、基本的には、シリア政府に対して武器を取りあげてしまったシリア人の計算違いだったと言えよう。
 

シリア政府は縁故主義や近親者たち、あるいは、同一宗派の支持者たちによって支えられて40年間も絶対的な権力を謳歌してきた。そして、軍事的独裁政権でもある。アレッポ市が無数の反政府派の市民によって埋め尽くされていた頃、まだシリア軍が投入される以前の2011年の夏、ロバート・フォード元在シリア米国大使は、恥ずべきことではあるがハマー市を内密に訪れた際、このことについて明快な警告を発していた。予想通り、あるいは、偶然にも、この警告に耳を傾ける者はいなかった。結局、われわれは自分を責めるしかない。たとえ西側諸国が何もしてくれないとしても、あるいは、何かをしてくれたとしても、すっかり破壊され落日を背にしている我が国について最終的な責任を持つのはわれわれ自身でしかないのだ。
 

ニーチェはこう言った。「怪物に闘いを挑もうとする者は、その過程で自分が怪物に化けることがないように気をつけなければならない」。これはシリア内戦の行方を非常に的確に予言する言葉となった。世界規模で活動するメデアのあらゆる目的やうわべを飾るごまかし、あるいは、プロパガンダや真っ赤な嘘は別にしても、反政府派の兵士たちがアレッポの街へ入ってきた時にわれわれが見た地上の風景は日常性とは遥かにかけ離れたものだった。家庭を直撃した。大きな衝撃であった。特に、民衆の蜂起を最初から支援し、それを信じてきたわれわれにとっては大変な衝撃であった。それはまさに究極の裏切りとでも言ったらいいのだろうか。

われわれにとっては、反政府派の兵士はその兵士自身が立ち向かっている政府が犯した罪と同じことを自分たちもしでかすようなことはない。一般家庭や商店あるいは民衆が所属する地域社会を襲うようなことはしない。しかしながら、アレッポでは、数週間もすると、起こる筈もないことが現実に起こり始めたのだ。それは日増しに確実になっていった。
反政府派が入ってきた町で彼らは組織的な略奪を行った。住民の生命や財産に対する尊厳の意識などはこれっぽっちも持ち合わせてはおらず、まったく何の法的な制裁を受けることもなく、身代金を得るために住民を誘拐しさえもした。古代からあって、市の象徴的な存在となっていた歴史的な遺跡を意図的に破壊した。工場や工業団地ではすべてを剥ぎ取り、電線までもが略奪の対象となった。高価な機械や基盤設備をトルコとの国境を越して運び出し、実際の価格の何分の一かの値段で金に替えてしまった。ショッピングモールは空っぽにされ、倉庫も同様だ。彼らはサイロに貯蔵されていた穀物も盗んだ。その結果、主食の値段を高騰させ、危機的な状況を作り出した。政府軍の勢力範囲にある市街地へ向けて休むこともなく臼砲やロケット弾を撃ち込み、車には爆弾を仕掛けた。何の罪もない市民が多数死傷し、狙撃兵は日常的に通り掛かりの市民たちを冷酷に殺害した。その結果、かっては誰もが忙しく、力強く成長していた、豊かなこの商業都市は何千、何万もの極貧者やホームレスで溢れるようになった。
でも、どうしてこうなってしまったのか。彼らはどうしてこのようなことをしたのか。やがて、その理由が明白になってきた。それは、単純に言って、「われわれ」対「彼ら」の関係だった。彼らは武器を手にして、都市部を襲った。彼らは地方の恵まれない連中で、過去何年間にもわたって彼らが感じてきた不条理に対して復讐をしたのだ。彼らの動機はわれわれの動機とは似ても似つかわないものだった。それは国全体のために自由や民主主義あるいは法の支配を求めるわけではなく、ただ単に押さえの効かない憎悪心や自分たちのための復讐だった。
彼らの行動の性格は過激的で宗派的であって、アレッポに住むわれわれのような都市部の住民については誰もが政府側の垂れ込み屋で、政府の支持者であった。われわれの生命や財産は彼らにとっては没収の対象でしかない、と彼らは思っていた。また、それを隠そうともしなかった。反政府派の暴利を貪る将軍たちは間もなく普通の家庭でさえも話題となり、住民の間で彼らが好んで行う略奪やテロの拡散は政府や政府軍に対して抱いていた敵意や不愉快な気持ちよりも遥かに大きな苦難をもたらした。あの恐ろしいほどの緊張状態、イスラム過激派ならびに彼らのアル・カイーダとの大ぴらな同盟関係、あるいは、わが国の将来に関する彼らのゾッとするような計画はもとより、この地が今どんな雰囲気であるかを想像することができるだろうか。それは、息が詰まるような根源的な恐怖である。あるいは、恐怖と絶望とが一緒になったような状況と言ったらいいだろうか。
ところで、「われわれ」とは誰を指すのか。われわれは自分たちは何処かが違うんだ、あるいは、自分たちの方が立派だとどうして感じるのか。「われわれ」の手で、どちらかと言えばエリート的に聞こえてしまう懸念があるとはいえ、アレッポでは市民たちの草の根レベルでの反政府運動を展開してきた。何ヶ月にもわたって自分たちの命をすこぶる危険な状況に曝しながらも平和的な抗議行動を組織し、支援物資を市民に配布していた。「われわれ」は社会的および政治的な革新に関しては常により高い理想を抱き、それを本当に信じていたし、それらの理想を実行しようと試みていた。われわれは自分たちの行動を1960年代の米国における市民権運動や人種差別に対して闘ったマンデラ、あるいは、ガンデイーの教えに倣おうとした。つまり、チュニジアやエジプトでのアラブの春に見られるような市民運動に倣おうとしたのだ。
「われわれ」にとっては、革命とはゆっくりと進行するものであって、意図的に、献身的に変革を求める闘争であった。それは、雨水が繰り返し石の表面に落下し、最終的にはそれを破壊するのに似ている。しかし、「彼ら」にとっては、その石に何トンものTNT火薬を放り投げ、それを一気に壊し、その周りにあるものすべてを粉々に破壊することが彼らの理想であった。「われわれ」はほとんどが都市部の中流家庭の出身であって、教育も受けている。われわれはすべての社会的階層、すべての宗派、そして、あらゆる場所から来ているが、実は、そのこと自体については何の偏見も持ってはいなかった。
われわれは「あの青年、あるいは、あの女性は何処の出身だろうか」、「どの宗派だろうか」といった質問をすることは決してなかった。誰もが自分のできることを行い、自分にとって可能な範囲で貢献をしていたのだ。われわれのリーダーは若い、キリスト教出身の弁護士で、非常に活動的で、献身的な女性だった。われわれのグループの残りの連中はシリア社会の小宇宙といった感じだった。ベールを被った若い女性、シーア派の青年、金持ちの子弟、あるいは、貧しい労働者階級の子弟、等で構成されていたが、われわれは皆が共有し信じている理想のために一緒になって行動をした。
われわれが活動家として行動をしている間、われわれのグループの何人かは刑務所へ送られ、怪我をし、一人は不幸にも亡くなった。われわれの街がこっぴどくやられることはなかったからでもあるのだろうが、アレッポが反政府派の襲撃を受けた直後、一緒に活動をしていた仲間の何人かからメッセージを貰った時ほど悲しく思ったことはなかった。一人が言った。「われわれは何と馬鹿だったんだろう。われわれは裏切られたんだ!」 他のひとりはこう言った。「何時の日にか、われわれは美しい国を持っていたのだと自分の子供たちに話してくれ。俺たちの無知や憎悪のせいで、それをすっかり台無しにしてしまったと。」
私自身が革命を諦めたのはちょうどその頃だった。シリアを救う道は和解し合い、暴力沙汰を断念するしかないと悟った時だ。多くの者がそう思っていた。しかし、不幸なことに、この思いは戦争屋や陰の実力者と共有することはついになかった。自分たちの汚い野心に対する飽くことのない欲望を満たすためには、より多くのシリア人の血を流すことが必要だと彼らは考えていたのだ。
活動家さえも含めて、知識人やビジネスマン、医師および熟練した専門職の人たちは群れになって街から脱出した。その一方、他の者たちは街に残り、依然として市民活動の組織化に注力し、今や自分が生まれ育った街の中で住居を移さなければならなくなった無数の、それこそ何千という家族に対して支援を提供していた。絶望的な状況だった。しかし、それさえもが無駄になることが明白となった。すべてが変わってしまった。前と同じ街に戻ることは決してないのではないか。
結局シリアが到達した状況は、どこへ行っても「われわれ」対「彼ら」という図式である。反政府派対政府派、世俗主義者対イスラム教徒、スンニ派対シーア派、和平勢力対武装勢力、都市部対地方、等。最後にシリアに何かが残るとしても、それは血を流し死に瀕した獲物を奪い合う狼やハゲタカたちの間の駆け引きが終わった後に初めて目にすることが可能になるのだろう。それがわれわれに与えられ、われわれシリアの市民は自分たちの国の断片や個人個人の将来を拾い集めることになるのだ。
われわれはこのことに関してわれわれ以外の誰かを責めるような遡及権を有しているのだろうか。これがわれわれの宿命だったのだろうか。それとも、これは悪党の残酷な陰謀だったのだろうか。多分、次世代のシリア人がこの質問に答えてくれることだろう。
Edward Darkという名前は現在アレッポに在住するシリア人の著者の仮名である。ツイート・アドレスは @edwardedark

この著者の考えや感慨はシリア紛争に巻き込まれたシリア市民を代表するひとつの見方であるかも知れない。少なくとも、実際に政府に対して抗議活動をしていた著者がシリア国内で観察することができたさまざまな側面がここには語られている。この内容はわれわれのような外部の者がシリア紛争の真の姿を学ぼうとする時、非常に貴重な情報になるのではないだろうか。

927日、ロシアのプーチン大統領、ラブロフ外相、チャーキン国連大使等の努力の結果、国連安保理事会はシリア所有の化学兵器を国際管理下に移し、それらを廃棄するとの決議を全会一致で採択した。米国が主張していたシリア空爆は当面回避された。821日の大規模な化学兵器の使用があった時点から1ヶ月余り、シリアを巡る国際政治は大きく舵を切った。旧ソ連邦の崩壊と同時に、冷戦の構造が一気に消えていった時と同じような印象を受けた。

 

               

一市民の感慨とは対照的に、アサド大統領は今どんな思いを持っているのだろうか。

930日のRTの記事[2]にアサド大統領とのインタビューが掲載された。その一部を抜粋して、仮訳を紹介してみたい。


大統領職を離れることが本当にシリアの現状を改善することになるのかとの質問に対して、アサド大統領は「職を辞することには躊躇しない」と答えた。しかし、シリアの国民の過半数が辞職するようにと告げない限り、危機の真っ只中にある今、職を辞する考えは彼にはない。
「自分の職を辞して、嵐が襲っている真っ最中に国を離れることなんてあり得ない」と、イタリアのRai News TVとの日曜日のインタビューでシリアのアサド大統領が述べた。「私の使命はこの国を岸に向かって無事に航行を終わらせることであって、その船やシリアの国民を途中で見棄てるようなことはできない。」 
アサド大統領は、国内に有している化学兵器を排除することについては国家としてそうする用意があると強調した。また、シリアはこの件について保留すべき事項は何もないとも述べた。
金曜日に、国連[の安保理]はシリアの化学兵器を国際管理下に移行し、2014年の半ばまでにはそれらを廃棄するとの決議案を全会一致で採択した。
化学兵器を排除する任務を持ってやって来る国連のチームに対してシリア政府が安全を保証することは自明の理である、と大統領は述べた。しかし、テロリストがその任務を邪魔するかも知れないとの懸念を付け加えた。
「もちろん、われわれの役割はデータを提供し、彼らが実施しようとするさまざまな処置が少しでも容易になるようにすることであって、目下のところ、それは実現されている。私が思うに、われわれ側の役割とは技術的な側面、もしくは、実行の面にあり、どうやってそれぞれの拠点へ到達するのかといった点だ。特に、どんな障害を引き起こすか予測もできないテロリストがいる時、このことはなおさら重要になる。また、どのように解体し、それらをどのように排除するのかといった点だ」と、アサド大統領は述べた。
このインタビューでアサド大統領は、シリア政府は「政治的プログラムあるいは政治的視点」を持つ反政府派と政治対話を行う用意ができている、と指摘した。「彼らが武装している場合は彼らを反政府派とは呼ばない、彼らはテロリストだ」とも強調した。
「われわれは反政府派のどの党派とも話をすることが可能だ。武装勢力については、もし彼らが武器を捨てるならば、他の一般市民たちとの間で行う対話のように、彼らとも語り合う用意ができている。」
「われわれはアル・カイーダの分派やアル・カイーダの支援を受けている組織とは対話をすることはできない」と付け加えた。「われわれは外国の介入やシリアへの武力介入を頼むような連中と交渉する積もりはない。」
....破廉恥極まりない8月の化学兵器攻撃に関する質問に対して、シリア大統領は、シリア軍はこの内戦の最中化学兵器を使用することは一度もなかった、と答えた。
「論理的ならびに現実的に言って、自分たちが攻勢にある時、化学兵器を使おうとはしない。われわれの軍は攻勢に出ていた。それなのに、どうして化学兵器を使う必要があるというのか。シリアの各地で非常に困難な状況もあったが、2年半の間に使用することはなかった。各地でダマスカスにおけるよりもずっと多くのテロリストたちに対峙していた。それでも、われわれは使用しなかったか。どうしてあの場所だけで使う必要があったというのか。」
シリア政府自身が国連の検査官を招き、化学兵器使用の実態を調査するように要請したことを指摘した。そして、その翌日シリア軍が化学兵器を使用するなどという行為は非論理的ではないかとも付け加えた。
アサド大統領は政府に対してその責任を迫るために悪用された、例のインターネット上で閲覧が可能なゴータ地区での化学兵器攻撃の写真やビデオ映像はまだ十分な検証が行われてはいないとも述べた。
「幾つもの地区で、同じ子供の同じ写真が用いられているが、そういった写真がインターネット上で見ることができる」と述べた。
「別の面について言えば、われわれはテロリストが使った原料や容器について完全な証拠をつかんでいる。隣国から化学兵器を運んだテロリストの自白もある。また、この犯罪を犯したのはシリア軍ではなくて、テロリストだったという指摘も揃っている。」
アサド大統領は化学兵器の使用を核兵器のそれと比べた。核兵器は「厳格な手順の下に置かれる。それは核兵器を起爆させるには、第一に、技術的に非常に複雑だからだ。」
「二番目には、シリア軍では個別の部隊がそれぞれ化学兵器を持っている訳ではなく、もしそれを使いたいというのであれば、化学兵器を使用するためには特殊部隊がその部隊に加わることになる」と、アサド大統領は付け加えた。 

テロリストとの闘いは憲法上の義務:
この危機が始まった当初反政府派の兆候に対して断固たる措置をとったことについて残念に思っているかとの問いに関して、アサド大統領は「憲法に基づいて対処したまでだ」と説明した。また、この時、1992年に起こったロサンジェルスでの暴動に対する米国の対応を例に挙げた。
『ここで、「断固たる措置」という言葉を定義しなければならない。何故かというと、われわれはあの現状を憲法に基づいて対処したのだから。あれは、丁度、米国政府が1992年にロサンゼルスへ軍隊を派遣した事例と酷似している。あれを「断固たる措置」と呼ぶのか、それとも、あれは暴徒との闘いのために軍隊が派遣されたのだと思うか』と、大統領が聞き返してきた。
「憲法に基づいて、われわれはテロリストと闘わなければならなかった。と言うのは、最初の週から軍や警察に数多くの犠牲者が出ていたからだ。」
「地上で起こるあのような過ちは世界中何処でも起こり得る」と、アサド大統領が言った。
「シリアの国民が私に大統領になってくれと言うならば、私は再選に打って出たいと思う。」
辞職を考えたことがあるのかとの問いに対して、アサド大統領は、「もし私の辞職がこの国に平和と安定を保証するのであれば、そうしたい」と、述べた。
「しかし、他にも問いかけたい点がある - 状況は果たして良くなるのだろうか、と。大統領としての私は、今のところ、自分の役割を全うしたい。怒涛に見舞われている最中にその役割を放り出したくはないからだ。」
しかしながら、それを決定するのは彼自身ではなく、投票箱を通して自分の意思を表明するシリア国民が決めることだ、とアサド大統領は述べた。
「シリアの国民が望むことに私は忠実でありたい」と、アサド大統領は言った。「どこの国であっても、他に方法があるわけではない。つまり、シリアの特定のグループの意思ではなく、それを決めるのはシリアの市民だ。」 
2014年の選挙に関してアサド大統領は「シリアの国民が私を大統領に選出したいというのであれば、私は出馬する。シリア国民がそれを望まないならば、出馬はしない」と、述べた。
アサド大統領はこの国の改革はシリア国民が行うべきだと強調し、危機が収束したら、多くの仕事が待っているとも付け加えた。
「たとえこの危機を乗り越えたとしても、やるべきことはたくさん残っている。危機の後に残される課題、特に、シリア社会が被った思想的、心理的、ならびに、社会的な影響を考えると、私たちには非常に多くの仕事が残されている。」 

               

私の個人的な印象ではあるが、アサド大統領の人となりを知ることができる情報は非常に少ない。アサド大統領は時には西側の報道機関のインビューを受けることがあるが、そういったインタビュー記事はまたとない好材料だと思う。ここに掲載したイタリアのテレビ局とのインタビューでも然りだ。「意外なほどに」と言えば、当のアサド大統領に対して失礼極まりないことになってしまうが、私はアサド大統領の物の考え方は非常に緻密であり、政治的にも非常に健全な印象を受けた。
日本に武器を振りかざすテロリストが何千、何万と入ってきて、地方都市を占拠しようとしたら、日本政府はどのように対処するだろうか。さらに、そのテロリストに対して隣国が武器の供与を続けたとしたら、どう対処するだろうか。
ここにも言及されているように、丸3日間も略奪が横行した1992年のロサンゼルスの暴動では、米国政府は軍隊を出動し、その鎮圧に当たらせた。それと同じように、日本政府としては自衛隊を総動員してテロリストを排除することだろう。そのような状況においては、現実には、選択肢はそれしか残されてはいないのではないか。そして、最も過酷な現実はテロリストの排除の過程で無数の一般市民が巻き添えとなって犠牲になるかも知れないという点だ。この可能性をゼロにすることは多分できないだろう。
非常に極端な状況であるとは言え、そのような現実がシリアでは実際に起こったということだ。ただ、3日間ではなく、もう2年半にもなるが....

 

参照:

1: How We Lost The Syrian Revolution: By Edward Dark, Al Monitor, May/28/2013, www.al-monitor.com/.../syria-revolution-aleppo-assad....


2: I obey the will of Syrian people, not a particular group – Assad: RT, Sep/30/2013, http://on.rt.com/jxgotm

 

  


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