2013年11月19日火曜日

ノーム・チョムスキー: 「文明は資本主義の時代を生きながらえることができるか」 


個人的な話になるが、今年は国際政治の究極の段階とでもいえる戦争に関してかなりの時間を費やした。尖閣諸島問題を始め、シリア紛争については毎日のように多くの時間を情報検索のために使っていた。ブカレスト市に住んでいる私にとっては日本のテレビを見たり新聞や雑誌を購読することは事実上できないので、情報はインターネット上であれこれと検索し、これはと思う記事を拾うことになる。知りたいと思う件については自分の方から情報を取りにいくしかないのだ。この8月、シリア紛争は短期間の間に思わぬ方向へと劇的に展開したことから、しばらくの間私はインターネットに釘付けにされてしまったかのような状況だった。その結果、自作自演の戦争行為をさまざまな角度から知ることができた次第だ。
しかし、今日は環境問題に立ち入ってみたいと思う。
日本では、この秋の台風シーズンに伊豆大島が大豪雨に見舞われ、大規模な土砂災害が発生した。多くの犠牲者が出た。伊豆大島に住む人たちにとっては、このような大規模な土砂災害は生涯で始めてだったという。今までの経験の延長線上では考えられないような状況だったということだ。犠牲者の方々に黙祷したいと思う。
この10月に日本列島に接近した台風の数を見ると、今年は歴史上最多とのことだ。
そして、つい最近フィリピンを襲った超大型台風30号による被害の全貌が判明しつつある。犠牲者数は1116日の時点で国連の推計では3600人を超すと報道されている。街並みが消えてしまい、瓦礫と化した。
暑い夏のシーズンが以前に比べて長期化していると言われている。
オーストラリアで毎年発生する山火事は人口の密集度がもっとも高い州で最悪の事態となった。シドニーの郊外にまで迫った。年中行事になっているとは言え、山火事が発生する期間は長期化し、その規模が大きくなっていると報告されている。米国アリゾナ州のフェニックスでも、今夏、史上でもっとも暑い夏となった。3年前の2010年には、ロシアを襲った暑い夏は大規模な森林火災をもたらした。衛星写真を見ると、赤い炎が何箇所にも見られ、白煙が大きく広がっている。130年前に気象データの記録が始まって以来もっとも暑い夏だった。
地球規模で見ると、地球の温暖化は平均気温で0.8Cの上昇だという。しかし、地域的にみると、気象現象の変動はより大きな振幅となって現れる。巨大な台風になったり局地的な大豪雨をもたらしたりすることが多い。最近の気象データや世界各地で起こっている水害や土砂災害あるいは森林火災の規模をみても、この傾向は否定できない。
世界の気候変動、つまり、地球の温暖化は多くの地域ですでに日常生活の脅威となっている。この環境の激変はどこまで進行するのだろうか。今世紀末にはどんな気候が待っているのだろうか。それは想像を絶するような世界かも知れない。 

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世界でもトップ・レベルの論客であるノーム・チョムスキーの最近の記事[1]を今日は覗いてみたい。その表題は仮訳すると「文明は資本主義の時代を生きながらえることができるか」だ。内容は環境問題。深刻な地球規模での環境問題を抱えて、資本主義はいったい生きながらえることができるのだろうかという観点から論評をしているのだが、その評価は非常に懐疑的だ。
チョムスキーの活動分野はすこぶる広い。特に、国際政治の分野では、チョムスキーはベトナム戦争への反対を意思表示したことを始めとして、多方面にわたって大きな足跡を残している。言語学者としてばかりではなく、高齢になった今でも言論界にはさまざまな形で影響を及ぼしているようだ。ウィキペディアの説明を拝借すると、彼の業績は下記のように記述されている。その記述をみるだけでも、チョムスキーの偉大さが分かる。
 
 
エイヴラム・ノーム・チョムスキー英語Avram Noam Chomsky1928127 - )は、アメリカ合衆国哲学者言語哲学者言語学者社会哲学者論理学者チョムスキー50年以上マサチューセッツ工科大学に在籍し、言語学および言語哲学の研究所教授 (Institute Professor) 兼名誉教授である。
チョムスキーの業績は言語学分野だけにはとどまらず、戦争政治マスメディアなどに関して100冊以上の著作を発表している。Arts and Humanities Citation IndexA&HCI)は1500以上の人文学系の専門誌を網羅し、社会科学や自然科学の分野からも関連データを収録しているが、このA&HCLによると、1980年から1992年にかけてチョムスキーは存命中の学者としては最も多く引用され、全体でも8番目に高い頻度で引用されている。彼は「文化論における巨魁」と呼ばれ、2005年には投票で「世界最高の論客」 (world's top public intellectual) に選出された。
どういう意味合いでノーム・チョムスキーが「世界最高の論客」として選ばれたのかというと、それは、2005年のガーディアン紙[2]によると、彼独特の将来の展望とか国際政治に対する視点から選ばれたものだという。
1991年に旧ソ連邦が崩壊したことから、数十年間続いていた東西冷戦の基本的な構造は消滅した。これによって、米国は一人勝ちの状況となった。まったくの結果論であると私は思うのだが、当時、共産主義に対する資本主義の優位性が様々な形で言いはやされた。それは資本主義陣営の人たちには一種の自己満足や優越感を与えたようだ。
世界市場を席巻しようとする米国の多国籍企業の経営方針は「グローバリズム」とか「新自由主義」と言い直された。しかしながら、たとえ新たな言葉に置き換えられたとしても、米国の経済システムの本質は、物やサービスをより多く販売するために、米国が持つ圧倒的な軍事力を背景に米国の多国籍企業のために海外市場へ飽きることなく展開することである。
このような現状の中、資本主義の将来はノーム・チョムスキーの眼にはいったいどのように映っているのだろうか。それが今日のテーマだ。
チョムスキーの記事[1]を仮訳して、皆で共有してみたいと思う。引用部分は段下げして示す。
「資本主義」という言葉は通常米国の経済システムを指して用いられているが、そこには創造的な変革に対する財政支援から始まって、倒産させるには余りにも大きい銀行に対する政府の保険政策に至るまで、さまざまな国家規模の介入が付きものだ。
このシステムは高度に寡占化されており、市場への依存に限定されている。そして、その傾向は強まるばかりである。企業の利益について言えば、過去20年間、大企業のトップ200社の利益が占める割合は急激に増大した、とロバート W.マックチェスニーが「Digital Disconnect」と題した新刊書で述べている。
「資本主義」は今や資本家が存在しないようなシステムを記述するためにさえも広く用いられている。たとえば、スペインのバスク地方に本拠を置いた労働者所有の「モンドラゴン複合企業体」、あるいは、オハイオ州の北部で保守層からも広く支持を集めて展開されている「労働者所有企業群」があるが、これらふたつの事例はガー・アルペロヴィッツによって彼の貴重な労作の中で詳しく論じられている。
この「資本主義」という言葉は19世紀末から20世紀始めにかけて米国の著名な社会哲学者であったジョン・デユーイが提唱した産業民主主義を指すために用いる者もいる。
デユーイは労働者が「自分たちの産業の運命に関してその主となる」ことを求め、生産、証券取引、広報、輸送ならびに通信を含めて、あらゆる機関を公共の管理下に置くよう求めた。これが不完全に終わると、政治は巨大ビジネスの社会が投げかける単なる影のような存在に留まることになるだろう、とデユーイは論じた。
デユーイが非難したこの不完全な民主主義は近年ズタズタになってしまった。今や、政府に対するコントロール権は収入の尺度で言えばその頂点に集まっているほんの一握りのエリートたちだけに集中しており、「それよりも下にいる大多数の人々は実質的には公民権を剥奪されている。もしわれわれが意味する政治的体制(つまり、民主主義体制)においては政策というものは公衆の意思によって著しく影響されるべきものだと位置づけるならば、現行の政治・経済システムは本来の民主主義からはすっかり逸脱したものとなってしまった。しかも、すっかり寡占化されたものになってしまっている。
「資本主義と民主主義とはうまく整合するのだろうか」という問いかけに関しては、近年、非常にまじめな議論が行われている。もし「実際に存在する資本主義的な民主主義(really existing capitalist democracy)」(これを短縮してRECDと呼ぼう)から今後とも脱却することはできないとするならば、その質問には容易に答えることができる。一言で言うと、両者はひどく相性が悪い。
ここで、RECDについて著者が何を意味したいのかを考えてみよう。RECDという綴りは発音的にはwreckedという単語と重なってくる。その意味は「大破した」とか「破綻した」である。著者が直接そう言っている訳ではないけれども、「現状の資本主義的な民主主義はすっかり破綻してしまっている」と、著者は指摘したいように私には読める。
さらにこの論評の続きを覗いてみよう。
このRECDの時代やそれに同調してひどく希釈されてしまった民主主義を乗り越えて、文明は果たして生き延びることができるのかというと、その可能性はとても低いように私には思える。しかしながら、機能性の良い民主主義であるならば、何らかの違いをこれからでも実現することができるのではないか。
文明が直面している最も重要な議論から反れないようにしよう。最も重要な議論とは環境の激変についてのことだ。RECDの下ではよくあることだが、政府の政策や一般大衆の世論はこの中心的な軌道から大きく反れてしまうことがある。
アメリカ芸術科学アカデミーの雑誌「ダイダロス」の最近号に掲載された幾つかの記事はそのギャップの特質を精査しようとしている。
研究者のケリー・シムズ・ゴラガーの指摘によると、「再生可能な動力源に関して何らかの形を持った政策が109カ国で立法化されている。また、118カ国では再生可能エネルギーの目標値が設定された。しかし、それとは対照的に、米国では再生可能エネルギーの使用を育むために必要となる国家レベルでの恒常的かつ安定的な政策は何ら採用されてはいない。」
国際的な広がりを見せる米国の政策を推進するのは世論ではない。それとはまったく逆である。世論は、どちらかと言うと米国政府の政策が指し示す方向性よりも世界的な標準に遥かに近い位置にあり、科学的合意が形成されている将来の環境災害やそれほど遠い将来のことではなくわれわれの孫たちの生命を脅かすような災害に立ち向かう上で必要な行動についてもより協調的である。
ジョン・A・クロスニックおよびボー・マッキニスはダイダロスで次のような内容を報告している。
大多数の人たちは、電力会社で発電を行う際に生成される温室効果ガスの放出量を削減しようとする連邦政府の政策を好感を持って迎えた。2006年のことではあるが、回答者の86%が電力会社に温室効果ガスの放出を削減するよう要求することや減税措置によってそうするように促す政策に関して賛意を示した。また、水力や風力または太陽エネルギーからより多くの発電をしようとする電力会社に対する同年の減税措置についても好意的であった。これらの大多数の市民の意見は2006年から2010年までずっと同レベルに維持されていたが、その後やや低下した。
一般大衆が科学的な知見によって影響を受けるという現実は経済や国家政策を操ろうとするエリートたちにとっては非常に迷惑至極なこととなる。
彼らが最近心配していることを描写してみよう。それはALECAmerican Legislative Exchange Council)によって州議会に対して提案された「環境問題の理解度向上に関する法律」に見事に反映されている。ALECは民間企業からの資金援助によって運営され、企業群や一部の超お金持ちたちのために奉仕することを目的にして制定された法律だ。
ALEC法とは、K-12という会社が運営するオンライン教室において気象科学については「均衡がとれた学習」を行うよう義務付けようとするものだ。「均衡がとれた学習」とは実に巧妙に暗号化された表現であって、実際には気候変動を否定することを教え込み、主流の気象科学の教えと「均衡」させることが狙いとなっている。それは公立校で「創造科学」を教えることを可能にするために天地創造説の信奉者たちによって擁護された「均衡がとれた教え」とよく類似している。ALECのモデルに基礎を置いた立法がすでに幾つかの州で導入された。
ここには、新自由主義あるいはグローバリズムを推進する資本主義の原理が具体的な行動として明確に現れている。地球の温暖化現象は科学的な知見として大多数の科学者によって受け入れられている。しかしながら、チョムスキーの主張によると、資本の論理はそれさえも覆そうとしている。教育の場で「均衡がとれた学習」を提供し、科学的な知見をこきおろそうとしているのだ。飽くなき利益の追求は留まることを知らない。環境を含めすべてを利益の対象として翻訳してしまうのだ。そして、もちろんのことだが、その結果について責任をとる積もりは毛頭ない。ここに紹介されているALEC法は何と巧妙に作られていることか。素人にとっては、「均衡がとれた学習」という文言からはその背後に隠されている真の理由を見出すことは至難の技だ。この種の洗脳プログラムは他にも数多く存在しているだろうと推測される。
もちろん、その狙いのすべては気象に関する教えの中では言葉のあやを駆使して巧妙に表現されている。疑いもなく、うまい考えだと言えようが、これはわれわれの生存を脅かしかねない。企業の利益を保護する観点から重要だという理由だけで選定されたこのような行動に比べれば、それよりも遥かに重要なテーマを思い浮かべることはさほど困難なことではない。
メデイアの報告は、通例、気候変動に関しては意見がふたつのグループに分かれ、両者間の論争を提起することが多い。
ひとつのグループは大多数の科学者たちや世界中の主だった国々の科学アカデミー、ならびに、専門的な科学雑誌や気候変動に関する政府間パネル(IPCC)によって形成されている。
このグループのメンバーは地球温暖化が進行しつつあるということ、人間活動が大きな要因であること、状況は深刻であり、多分、切迫していること、ならびに、近い将来、恐らくは数十年の内に世界はこの現象が急激に進行する転換点に到達し、後へ戻ることはできないかも知れない、これは厳しい社会的および経済的な影響を伴う、といった点で科学的合意が形成されている。非常に複雑な課題に関してこのような合意に達することは稀なことである。
もうひとつのグループは懐疑派によって構成されている。まだ多くのことは知られてはいないことに警鐘を鳴らす何人かの著名な科学者も含まれている。つまり、状況はそんなに悪くはない、あるいは、状況はもっとひどいかも知れないということだ。
しかし、この不自然な論争からはもっと大きな懐疑派グループが除外されている。このグループはIPCCの定例報告書は余りにも保守的であるとみなす著名な気象科学者たちのことだ。残念なことではあるが、これらの科学者は今までも何度となく正しい意見を述べてきた。
宣伝活動は明らかに米国の世論に対して何らかの影響を与えようとしている。世論は世界的な標準と比べてもより懐疑的である。しかしながら、宣伝活動の成果は背後に控えている主(あるじ)たちが満足するには決して十分ではないのだ。この事実こそが、巨大企業が州の教育システムに対して攻撃をしかけ、一般大衆が科学的研究の成果に関心を寄せるという主たちにとっては不都合で危険な傾向に対して反撃をするひとつの理由となっているのだ。
数週間前に行われた共和党全国委員会の冬の会合において、ルイジアナ州知事のロビー・ジンダルは党の指導陣に対して「われわれは愚かな党のままでいることに終止符を打たなければならない....われわれは選挙民の知性を侮辱するようなことは止めなければならない」と警告した。
RECDシステム内においては、経済や政治システムの主たちの近視眼的な利益を実現するためにはわれわれ国民は愚かなままで、科学や合理的行動によって間違った方向へ導かれることがないように科学的知見や合理的行動をこきおろしておくことが非常に重要なのである。
上述のような関与は奥深いところに隠されており、簡単には確認のしようもなく、非常に選択的な方法でしか観察することができない。これは富裕層や権力者に奉仕させる強力なシステムを維持するためにRECD内で説かれている市場原理主義的な理論に根ざしたものだ。
良く知られているように、公の理論にはさまざまな「市場の非効率性」が存在する。中でも、市場取引では他者への影響を配慮することはできない。これらの「外在性」が招く結果は相当に深刻なものとなり得る。現在進行している経済危機はその好例であろう。これについて因果関係を遡ってみようとすれば、その一部は危険な取引を引き受けた際に「システム上のリスク」(システム全体を崩壊させるような危険性)を無視した大銀行や投資企業にまで辿り着くことが可能である。
環境の激変はもっと深刻だ。現在無視されている影響の中でもっとも極端な事例は生物種の運命だ。一生懸命逃げようとしても逃げ出す場所はなく、その生物が生息する領域と運命を共にするしかない。
将来、(もし人類が生き残るとするならば)歴史家たちは21世紀の初めに起こったこの摩訶不思議な出来事を振り返ってくれることだろう。人類史においては初めてのことではあるが、人類は自分たちの活動の結果として非常に深刻な問題に直面している。つまり、人類の活動そのものが人類のまともな生存を脅かしているのだ。
上述の歴史家たちは、史上でもっとも裕福であり、もっとも強力な国家であり、比べようもないほどの優位性を謳歌している国家がこのやがて起こるかも知れない環境の激変を助長し、しかも、非常に皮肉なことには、それに最大限の支援をしてしまっている現状を観察することになるだろう。
さまざまな社会形態があるが、人類の次世代がまともな生活を送ることができるように最大限の努力を実際に行っているのはいわゆる「原始的な」社会である。つまり、北米先住民族あるいは土着民たちである。
数多くの土着民を抱えている国は地球を保全するという意味合いでは最先端を行くことになる。土着民を絶滅させた国、あるいは、土着民を隅に追いやってしまった国は破滅に向かって競争をしているようなものだ。
エクアドルは非常に多くの土着民を有している。同国は地中に眠っている巨大な石油資源を地下にそのままの状態で維持して行けるようにと先進諸国からの支援を得たいとしている。
それとは対照的に、米国やカナダは、カナダで産出される非常に危険なタールサンドを含めて、引き続き化石燃料を燃焼させようとしている。しかも、このまま自己破壊に向けて突き進んだ結果どのような世界になるのかに関しては何らの注意を払うこともなく、出来る限り早急に開発しよう、できる限り多く使用しようとしているのだ。
この所見は次のように要約することができる。
世界中の如何なる国や地域を取り上げてみても、先住民の社会だけは彼らが「自然界の権利」と名づけたものを防護しようと大変な努力をしている。それとは対照的に、先進国の人たちや世事にたけた連中はこれを一蹴してしまっている。
物事の理由付けが必ずしもRECDのフィルターを通して歪曲されたというわけではないとすれば、この現状は道理をわきまえた者に予見することができるような行動とはまったく逆方向だと言わざるを得ない。 

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ここで、「自然界の権利」という概念を確認しておきたいと思う。「自然の権利」とも表現されている。ウィキペディアに収録されている解説を覗いてみよう。それによると、
自然の権利とは自然保護を目的とした活動を法廷を舞台として行うための考え方のひとつ。「自然の価値を直接的に承認し、自然物に法的主体としての地位を承認する試み」として提唱されている概念である。人間中心主義からの脱却が理論的背景にあり、生命・自然中心主義への発想転換にともなって論じられている。
この「自然の権利」を法廷で実際に訴えた例は幾つかある。その場合、原告名として植物や動物名が象徴的に使われることが多い。
米国では、
1978年、ハワイにおいてパリーラ(鳥の一種)の名のもとに、人間が放牧した家畜による自然破壊を差し止め家畜をパリーラの生息地から除去することを求めて提起された自然保護訴訟が最初の事例となった。この訴訟では、パリーラは勝訴し、パリーラ生息地からの家畜の除去が命じられた。
日本では、
実際に訴訟として本格的に自然の権利論が展開されたのは、1995年提訴の「奄美自然の権利訴訟」(アマミノクロウサギ訴訟)が最初である。この裁判では、自然保護活動家Aらのほか「アマミノクロウサギ」など動物4種が原告として訴状に名を連ねた。鹿児島地方裁判所は、動物に法的な権利主体性(当事者能力)はなく、「アマミノクロウサギ」などの記載は無意味として訴状を却下した。
「自然の権利」は環境保護の概念としてはよく理解できる。しかしながら、上記にもあるように裁判所側は動物には訴訟をする当事者能力がないとして訴状を却下している。一方、「アマミノクロウサギ訴訟」では、裁判所側は問題提起としては理解を示したとも言われている。この訴訟はその後の「ジュゴン訴訟」と並んで「自然の権利」という概念を日本に広めることになった。

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東電の福島第一原発におけるメルトダウン事故は環境破壊の最たる事例だ。そして、廃炉作業には30年も40年もの歳月を必要とするとされている。この廃炉の作業では廃炉を順調に実施する人的資源の確保が最重要だと指摘されている。いままでにはなかった専門性をもった技術者を多数育成することが必要となるのだ。さらには、使用済み燃料棒を地中処理にすることに関しては、埋設後何万年もの安全性を考えると地震が頻発する日本では立地を決めることができないままである。技術的にまっとうな結論が得られないのである。言うまでもなく、廃炉となった原子炉や使用済み燃料の放射能が人の健康には甚大な影響を及ぼすことがこれらの難題の根源的な要素となっている。
ここにも、チョムスキーが述べた「人類の活動そのものが人類のまともな生存を脅かしている」構図が鮮明に現れている。今、日本の政治、経済、市民生活、そして、日本人としての社会集団の意識のど真ん中には福島原発事故が招いた不安が、その実態さえも解明されないまま、それが故に次世代を担う子供たちの健康に対する適切な対策をとることもないままに、厳然と存在している。これは巨大企業による利益を追求する経済システムが今や完全に破綻したということをわれわれ日本人に示していると言えるのではないだろうか。 

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チョムスキーの論理からすると、憲法に「自然の権利」を明記したエクアドルやボリビアがもっとも先進的な国である。その対極にあって、もっとも遅れている国は米国を筆頭にした資本主義国家群だ。天然資源を利益を生み出す資産と見なす資本主義が行き詰っているという事実は今や環境破壊の現状を見ると明白だ。最近の気候変動は、特に、大雨による土砂災害、たつ巻や台風による被害、あるいは、森林火災に見られるように、その規模は大きくなる一方であり、あたかも自然が牙を剝き出し始めたような感がある。
フィリピンを襲った超大型台風は、世界各地が今後襲われるかもしれない気候の大激変を物語っているのではないだろうか。年中行事のように台風がやってくる日本にとっては來シーズン以降の予告編を見せられたようなものだ。
地球温暖化の要因は温室効果ガスのせいではないと主張する科学者もいる。その中心的な論点は地球の温暖化は太陽活動のせいであるとしている。1991年、太陽活動サイクルの長さが地球の温暖化に関係しているとの報告があった。この説は、1991年の報告書の著者も含めて、その後のデータを含めて再検討を行った結果、オリジナルの報告とは異なる結論に到達したという。最新の知見[3]によると、1975年以降の地球温暖化の趨勢との関連性は非常に小さいことが判明した。
私自身も201199日に「10年以内に小氷河期が始まるかも」と題したブログを掲載した。しかし、太陽活動に関する最近の知見[4]によると、それほどにはなりそうもない。確かに太陽活動は低下している。今後90年間ほどは太陽の磁気活動が低下し、太陽の明るさは0.1%ほど低下すると予測されている。それによる地球の寒冷化の程度は現在進行中の地球の温暖化を覆すほどにはなりそうもないという。地球の温暖化を相殺するかも知れないと思えた太陽活動の低下による寒冷化シナリオは脆くも崩れ去ったようだ。
われわれ人類は、自分たちの子孫の幸せを願うならば、資本主義社会は率先して地球の温暖化に対処する方策を講じなければならないということだ。
「人類の活動そのものが人類のまともな生存を脅かしているのだ」とするチョムスキーの言葉は重く受け取るべきであろう。環境問題を解決しようと思えば、今や、資本主義社会の理論的枠組みを完全に組み直すことが必要だということだ。 

 

参照:

1Can Civilization Survive Capitalism?: By Noam Chomsky, AlterNet, Mar/05/2013, www.alternet.org/noam-chomsky-can-civilization-surv...
2Chomsky is voted world’s top public intellectual: By Duncan Campbell, The Guardian, 18 October 2005

3What does Solar Cycle Length tell us about the sun's role in global warming?: Skeptical Science, Jun/26/2010, www.skepticalscience.com/solar-cycle-length.htm

4Weaker sun will not delay global warmingREUTERS, Jan/23/2012


 


 

2013年11月4日月曜日

米国のジャーナリズムは「死に体」同然、日本では「秘密保護法」によって止めを刺されるのかも

[注:一部に行間の間隔が広がっている部分があります。この修正が出来ないままで居ます。読みにくいかも知れませんがご容赦ください。]


米国の大手メデアの報道姿勢は政府べったりで、真実を掘り起こそうとする本来のジャーナリズム精神はすっかりどこかに置き忘れてしまったかのようだとの批判が多い。「プレス」と「プロステチュート」のふたつの言葉を結合した新語を使って、その姿はまるで「プレステチュート」のようだと揶揄されている。

余談になるが、1976年のハリウッド映画「大統領の陰謀」では、駆け出しのワシントン・ポストの新聞記者(ロバート・レッドフォード)が先輩(ダステイン・ホフマン)と組んで、民主党本部に忍び込んだ5人の男たちを調査する。これは秋の大統領選挙を共和党に有利になるようにする工作であった。ふたりはニクソン大統領の再選委員会の選挙資金の流れに何か異常なものを嗅ぎ取った。そこから真相に迫っていく....しかしながら、政権側はCIAFBIを通じて、担当記者だけではなく新聞社側にも圧力をかけようとする。それでも、ワシントン・ポストの編集主幹は合衆国憲法で保障されている「報道の自由」に基づいて真正面から戦い続ける。この辺りがこの映画のもっとも印象的な場面だった。そして、ニクソン大統領は再選を果たしたものの、議会による罷免を回避するために大統領の職を辞任した。

イラク戦争に入って行った2003年の米国のメデアの様子を思い起こせば、大手メデアがプレステチュートと呼ばれるようにった状況は多くの人たちにとっても容易に合点が行くことだろう。さらには、この8月ダマスカス近郊での化学兵器による住民の虐殺を契機に、化学兵器を使ったのはシリア政府軍だと強弁し、米国やフランスがシリアを空爆すると脅かした際に見られたメデアの報道振りもまったく同様だった。企業利益を優先する大手メデアの節操のなさが頻繁に目に付いた。残念ながら、米国では、「大統領の陰謀」に描かれているようなジャーナリズム魂を見ることはできなかった。少なくとも、私の目にはふれなかった。

ところで、その米国にシーモア・ハーシュ(1937年生まれ)という記者がいる。

調査報道記者として若い頃から頭角を現してきたハーシュにとって、大手メデアの報道姿勢はとうの昔から気に食わなかったようである。ウィキペデアによると、ハーシュは報道の自由を追求したことから編集者とのけんかを度々経験した。たとえば、これは彼がアメリカ最大の通信社であるAPに勤務していた頃の逸話だ。米国がベトナムで使用している生物兵器や化学兵器に関する彼の記事について、編集者が語調をもっと和らげるようにと彼に要求してきた。ハーシュはそれには応じなかった。結局、彼はAPから飛び出すことになった。

編集者からの要求は、憲法に定められた報道の自由を考えると、彼にとっては論外だったのではないか。しかし、トップに報道の自由を遵守する気風がないかぎり、下っ端の記者はその新聞社を去るしかない。

彼が調査報道記者として広く世間に認められるようになったきっかけは196911月に遡る。それはベトナム戦争中に起こったソンミ村虐殺事件(19683月)を暴露した記事だった。当時、彼は小さな個人通信社の記者であった。借金をしながらも証言者を求めて全米を廻り、その記事を完成させた。無名であったハーシュの記事が評判となり、全米で33もの新聞に転載された。ソンミ村(人口507人)では米軍によって無抵抗の民間人が504人も殺害され、3人だけが奇跡的に生き残ったという。この報道は米国だけではなく国外にも非常に大きな衝撃を与えた。一方、この虐殺事件が公表されるとベトナム戦争に対する世論の支持はとても維持することができないだろうとの懸念から、米軍はこの虐殺事件を隠蔽しようとしていた。ハーシュの報道をきっかけに、米国内では反戦運動が激化した。

ハーシュの調査報道記者としての才能が開花した。この報道によって、ハーシュは1970年度のピューリッツー賞を受賞。

もちろん、ハーシュのソンミ村虐殺事件の報道だけがベトナム戦争の方向性を変えたとは言えない。

米国のジャーナリズムの世界には、「アメリカの良心」として名声を博していたCBSテレビのアンカー役を長年務めていたウオルター・クロンカイトの存在がある。ハーシュの暴露記事が報道される前年、19682月、クロンカイトは「民主主義を擁護すべき立場にある『名誉あるアメリカ軍』には、これ以上の攻勢ではなく、むしろ交渉を求めるものであります」と厳しい口調で発言して、ベトナム戦争の継続に反対を表明した。この発言はアメリカの世論に大きな衝撃と影響を与えたと言われている。当時のジョンソン大統領は二期目の大統領選に出馬することはとても無理だと判断せざるを得なかった。

これらのジャーナリストの発言が時代の流れを変えた。少なくとも、加速させた。この事実は特筆すべきことだと思う。

そして、その背景には、たとえ政府や官庁にとって都合が悪いことであっても、政治の潮流を変えるような議論を提示することを許す寛容さがその社会にあって、多くの国民がそれぞれ違った意見や思想に接することができる社会環境が基本的に存在していることが最低の前提条件である。これは、その対極にある独裁的な社会体制ではあり得ないことだ。議論を提示する過程ではメデアが専門的な立場から個々の課題について存分に取材できることが最低の前提条件である。いわゆる透明性が維持されていなければならない。政治の世界では政府や官庁はメデアの取材に対して十分に解放的で、説明責任を履行しなければならない。これは自明の理である。

これらのことを考えた場合、米国では憲法の存在が非常に大きいと私には思える。憲法がどーんと米国社会のど真ん中に座っており、メデアは憲法に記述されている「言論の自由」をひとつの基本的な政治姿勢としている。あるいは、上述の映画に描写されているように、憲法に謳われている「報道の自由」を取材活動の行動規範として正面に据え、政府からの圧力に対して挑戦している。
 

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そのハーシュが最近興味深い意見を述べている。これは927日付けの英国のガーデアン紙に紹介されているものだ[1]。その内容を仮訳し、下記に示したいと思う。仮訳の部分は段下げして示す。

ジャーナリズムを在るべき姿に修復するために、ハーシュは次のような強烈な考えを披露した。「ABCNBCのニュース局を閉鎖し、編集者の90%程を解雇し、外部からジャーナリストを導入して基本的な報道の仕事を復活させるべきだ」と。

1960年代から米国大統領の敵で在り続けて来た調査報道記者、ハーシュを燃え上がらせるには多くを必要としない。かって、彼は共和党によって「米国のジャーナリズムの世界ではもっともテロリストに近い存在だ」と言われていたほどである。

ここで、「米国のジャーナリズムの世界ではもっともテロリストに近い存在だ」という文言についてその背景を確認しておきたい。

イラク戦争が開始されたのは2003320日だった。その11日前、CNNテレビは今にも始まりそうなイラクへの派兵について特集番組を放映していた[2]。上記の文言はこの番組で使われた言葉だ。CNNの司会役を務めるウオルフ・ブリッツーのもとに、国務長官や上院議員、元国防次官補、元下院議員、等が討論の相手や論客として登場する。国務長官のコリン・パウエルが最初に登場。その後も様々な政治家が登場し、イラク戦争について賛成や反対の意見を表明し、議論が展開されていた。

論客の一人として、かって国防次官補を務めたこともあるリチャード・パールも登場する。彼はイラク戦争をもっとも精力的に推進していたネオコンの一人で、サダム・フセイン政権を数ヶ月で倒すことができると主張していた。彼は政敵からは「暗黒の君」と称されていた。このCNNの特集番組の記録を見ると、リチャード・パールはシーモア・ハーシュを「米国のジャーナリズムの世界ではもっともテロリストに近い存在だ」と形容した。

イラク戦争を何としてでも遂行させようとしていたリチャード・パールにとっては、歯に衣を着せずに記事を書く調査報道記者としてのハーシュはあたかもテロリストのような存在だったのだろう。

このあたりで、ハーシュに関するガーデアン紙の記事に戻ろう。

ホワイトハウスに挑戦しようともせず、真実を伝えるという嫌われ役に徹することもない米国の大多数の臆病なジャーナリストに対してハーシュは立腹している。

彼に話の糸口としてニューヨークタイムズを取り上げてくれと言おうとしたわけではないが、ニューヨークタイムズはオバマに奉仕するために想像以上に莫大な時間を費やしている、と彼の方から切り出した。また、オサマ・ビン・ラーデンの死に関しても然りだと言う。「あの政府発表のスト-リーには何も見るべき内容がなかった。あれは大嘘だ。ひとかけらの真実もない」と、彼は米海軍のシール部隊がオサマ・ビン・ラーデンの拠点を急襲した2011年の劇的な出来事についても言及した。

ハーシュは、今、国の安全保障に関して本を書いているところだ。ビン・ラーデンの殺害についてもひとつの章を充当している。彼が言うには、「パキスタンの独立検証委員会にが提出した最近の報告書にはビン・ラーデンが隠れ家として使用していたアボッタバードの邸宅における生活振りが記述されているが、あの内容はとても検証に耐えられるような代物ではない。」 パキスタン政府は報告書を公開した。それについて今何か喋ってくれとは言わないで貰いたい。まあ、言い方を変えれば、あの報告書は内容のほとんどは米国からの入れ知恵だ。あれはでたらめだ、と彼は言う。あたかも新しい事実が自分の本によって暴露されるとほのめかしているかのようだ。

「オバマ政権は組織を挙げて嘘をついている」と、彼は主張する。「それにも拘わらず、米国のメデア、テレビ局、あるいは大手の新聞は彼に向かって挑戦しようともしない。」

「情けないほどにひどい状況だ。彼らは単にオバマにへつらっているばかりではなく、この人物について論評することを怖がってさえもいる」と、彼はガーデアン紙とのインタビューで語った。

かっては、何か途方もない出来事が起こると大統領やその側近は説明内容を十分に把握し管理していたものだ。政府は事の顛末を率直に伝えるべく全力を傾けるだろうと多くの人たちは期待していたものだ。ところが、今や、そういう展開にはならない。そのような機会が到来すると、この時とばかりに大統領の再選のためにはどうするべきかについて知恵を絞るのが落ちだ。

つい最近暴露された国家安全保障局(NSA)によるスパイ事件の深刻さやその広がりに関する新事実が今後長く[米政府やNSAに対して]影響を与えることになるのかどうかについては彼は確信を持ってはいない。

上記の最後の段落に示されたNSAに関するハーシュの理解は何を意味しているのだろうか。たとえ、オバマ政権が事態の深刻さに気づいてNSAによるスパイ活動を規制し、縮小させたとしてもそれは一時的な解決にはなるかも知れないが、政権が変わればまたもや元に戻ってしまうのではないかとでも言いたいのだろうか。

プレステチュートという言葉で形容されているように、米国のメデアの現状は大きな問題となっている。それでもなお、自由闊達な意見が一部のジャーナリストから提言されているという事実が厳然としてあり、それを可能にする社会的環境が依然として根強く存在しているようだ。太平洋のこちら側から米国を眺めていると、勇気付けられる気がする。勇気のあるジャーナリストは、確かに、少数しかいないのかも知れないが、決してゼロではない。それが大きな救いである。
 

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また、9/11テロ以降の米国におけるジャーナリズムについて言えば、ジェレミー・スカヒルに触れずにおくことはできないと思う。

彼の新著「Dirty Wars: The World Is A Battlefield」に関してTomDispatch.comの編集者であるトム・エンガーハートが次のように彼を評価している[4]

米国中を対象とした全面的な盗聴や無人機によるテロリストの殺害に関する事実が発覚している。これらは米国社会のより大きな病弊の兆候であるとも言えよう。9/11同時多発テロ以前は米国はいわゆる「ならず者国家」と呼ばれた国々に対して世界の関心を促していた。しかし、あの日以降、地球上の多くの地域では永遠に続くのかと思われるほどの長い戦争に没頭し、人目を避ける個人的な居場所を誰からでも奪ってしまうような盗聴プログラムに莫大な資源を投入してきたことから、否が応でも抵抗意識を高め、安定さを欠くようになった世界にとっては、今や、米国は「超ならず者大国」としてしか目に映らないのではないか。ワシントンは如何にして戦争を秘密裏に遂行してきたか、戦争当事国では米国に対する反感や憎しみがどのようにして生まれたのか、超大国にとってはそうした悪事はいったいどのように機能するのか。イエメンにおける無人機によるミサイル攻撃、ソマリアにおけるCIAの秘密刑務所、アフガニスタンにおいては特殊部隊が民家を襲撃し市民を殺害する、といったニュース報道ではジェレミー・スカヒルを凌ぐようなジャーナリストはおいそれとは見つからない。彼のベストセラーとなっている書籍 (Dirty Wars: The World is a Battelefield) は米国流の21世紀の戦争について秘密の歴史を暴露した。 


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日本では秘密保護法案の国会への提出が閣議決定された(1025日)。この閣議決定はさまざまな異論や反論あるいは不安を巻き起こしている。

共同通信が26日、27日に行った世論調査[3]によると、「政府が今国会に提出した特定秘密保護法案に反対が50.6%と半数を超えた。賛成は35.9%だった。今国会にこだわらず、慎重審議を求める意見は82.7%に達し、今国会で成立させるべきだの12.9%を上回った。

また、政府は9月にこの秘密保護法案に関してパブリックコメント(意見公募)を求め、その結果が発表された。東京新聞の報道[4]によれば、 

政府が行った法案の概要に対するパブリックコメントでは約八割の国民が法案に反対したにもかかわらず、自らがその結果を無視し、閣議決定に踏み切った。政府は9月に意見公募を実施。わずか15日間の公募期間中に90,480件の意見が寄せられ、反対が77%にも上った。賛成はわずか13%だった。反対の主な理由は「国民の知る権利が脅かされる」、「特定秘密の範囲が不明確」という当然の指摘だった。政府が法案などを閣議決定する前に行う意見公募で、約9万件の意見が寄せられたのは極めて異例の多さ。この法案に対する国民の不安が浮き彫りになった。菅義偉(すがよしひで)官房長官は記者会見で、反対意見が圧倒的多数を占めたことについて「しっかり受け止めるべきだ」と語っていたが、反故にした。

これらの世論調査やパブリックコメントが意味することはいったい何か。

それは国民の大多数が秘密保護法案に反対している、あるいは、不安を感じているということだ。国民は議論がしつくされたとはまったく思っていないことを示している。

こういった現状にあるにもかかわらず、政府は今国会へこの法案を提出しようと決めた。日本は民主国家の顔をしてはいるが、それは上辺だけの話だ。実際は、国民に対する政府の姿勢は国民を愚民扱いにしているとしか考えられない。その実態が、今回、民意に逆らって秘密保護法案を成立させようとしている現内閣の姿勢に見て取れる。

「愚民扱い」と言えば少々聞こえが悪いかも知れない。しかし、私の個人的な印象では、この法案では行政機関が非公開にできる理由のひとつとして「国民に混乱を生じさせる恐れ」という項目がある。この文言こそが曲者だ。法律の運営の段階になって、政府あるいは官庁にとって不都合な状況が到来した場合、その情報を公開するか、それとも、非公開とするかは政府や官庁側の解釈次第とすることができる。この法律は不都合な真実を恣意的に隠蔽するための強力な武器となることだろう。
 

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政府が国民を愚民扱いにしたもっとも端的な例は20113月に起こった福島原発のメルトダウン事故だ。あの事故以来、日本政府に関する理解の仕方が180度も変わった人たちが非常に多い。少なくとも、政府の言動を懐疑的に見るようになっている。

政府は東電と共に2ヵ月半もの間、「国民に混乱を生じさせる恐れ」があるとして、福島原発のメルトダウンを認めようとはしなかった。メデアは「炉心溶融」あるいは「メルトダウン」の可能性を事故の2-3日後には大きく報道していた。そしてその炉心溶融の規模はチェルノブイリの事例にも匹敵するかも知れないとの報道を当初からしていた。それにもかかわらず、政府は「メルトダウンはしていない」、「ただちに人体に影響の出るものではない」と言い続けた。そして、事故の規模についても過小評価をし続けた。

そして、事故から2年半の今、人体への影響に対する不安は解消されるどころか、事態はより深刻になり、影響を受けている地域も想像以上に広がりを見せているのが現状だ。非常に深刻な状況である。

例えば、ある週刊誌の104日号[5]によると、尿検査で予想以上に多くの人たちからセシウムが検出された。これは常総生活協同組合(茨城県守谷市)が、松戸、柏、つくば、取手など千葉、茨城の15市町に住む0歳から18歳までの子どもを対象に実施した尿検査の結果である。

初めの10人を終えたとき、すでに9人からセシウム134137を検出していました。予備検査を含めた最高値は1リットル当たり1.683ベクレル。参考までに調べた大人は2.5ベクレルという高い数値でした。いまも検査は継続中ですが、すでに測定を終えた85人中、約7割に相当する58人の尿から1ベクレル以下のセシウムが出ています。(常総生協の横関純一さん)

検査を始めたのは、原発事故から1年半が経過した昨年11月。検査対象全員の146人を終える来年明けごろには、セシウムが検出される子どもの数はさらに膨れ上がっているだろう。


セシウム134137はウランの核分裂などにより生じ、自然界には存在しない物質だ。福島から近い関東の子どもたちが、原発事故で飛び散ったセシウムを体内に取り込んでいるのは間違いないだろう。副理事長の大石光伸氏が言う。


「子どもたちが食べ物から常時セシウムを摂取していることが明らかになりました。例えば8歳の子どもの尿に1ベクレル含まれていると、1日に同じだけ取り込んでいると言われます。内部被曝にしきい値はないので、長い目で健康チェックをしていく必要があります」


関東だけではない。放射能汚染による体内被曝が、東海や東北地方にまで及んでいることも分かった。福島を中心に200人以上の子どもの尿検査を続けている「福島老朽原発を考える会」事務局長の青木一政氏が、実例を挙げて説明する。

.... 体内にセシウムを取り込むと、どういう影響が出るのか。内部被曝に詳しい琉球大学名誉教授の矢ケ崎克馬氏が解説する。

「セシウムは体のあらゆる臓器に蓄積し、子どもの甲状腺も例外ではありません。体内で発する放射線は細胞組織のつながりを分断し、体の機能不全を起こします。震災後、福島や関東地方の子どもたちに鼻血や下血などが見られたり甲状腺がんが増えているのも、内部被曝が原因です。怖いのは、切断された遺伝子同士が元に戻ろうとして、間違ったつながり方をしてしまう『遺伝子組み換え』で、これが集積するとがんになる可能性があります」

矢ケ崎氏は、尿中に含まれるセシウム137がガンマ線だけ勘定して1ベクレルだとすれば、ベータ線も考慮すると体内に大人でおよそ240ベクレルのセシウムが存在し、それに加えてストロンチウム90もセシウムの半分程度あるとみる。

体に入ったセシウムは大人約80日、子ども約40日の半減期で排出されるが、食物摂取で体内被曝し、放射線を発する状態が続くことが危険だと言う。

常総生協が昨年度、食品1788品目を調査した資料がここにある。結果を見ると、280品目からセシウムが検出されていた。米74%、きのこ63%、お茶50%、それに3割近い一般食品にもセシウムが含まれていたのだ。
上記の報道は福島県に隣接する茨城県およびさらに南の千葉県での話である。素人目から見てさえも、福島県ではこの報道内容以上に遥かに深刻であると思う。

この現状は、事故の直後、政府が「ただちに人体に影響の出るものではない」と言っていたことを思い出させる。当時の政府の言い様が如何にその場凌ぎであったかが今となっては良く分かる。つまり、政府の関心は、あの未曾有の原発事故においてどのようにして当面の混乱を避けるかだけに集中していたのであって、真理を伝えようとする姿勢、あるいは、地域住民がもっとも必要としているものは何かといった問いかけは皆無に等しかったことを示している。

そして、その後2年半が経った今も政府の姿勢はその延長線上にしかない。上記の週刊誌の記事が伝える現状はそのことを雄弁に物語っているみたいだ。

 

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行政が保有する文書を閲覧したい時ジャーナリストや一般市民は情報公開請求を行政の長に送付し、情報の公開を求めることができる。

大手新聞社のひとつが政府に対して特定秘密保護法案の検討過程について情報公開請求をした[6]。ところが、政府が開示した情報の一部は下記に示すように「真っ黒」だったという。

 

タイトルや見出し以外は真っ黒に塗りつぶされていた。

政府が立案を進めている特定秘密保護法案の検討過程について、毎日新聞が関係省庁に情報公開請求をしたところ、法案の内容に触れる部分は「不当に国民の間に混乱を生じさせる恐れがある」として、ほとんどが黒塗りだった。官僚がどう法案を練り上げたかのプロセスが秘密にされており、主権者である国民が法案について十分に知り、深く議論することが難しい状況になっている。

なぜこのようなことが起こるのか?同記事は次のように続いている。

情報公開請求は、法案を担当する内閣情報調査室(内調)のほか、防衛、外務両省や警察庁、内閣法制局など関係する13の政府組織に対して行った。

....不開示について内調は「公にすることにより、国民の間に未成熟な情報に基づく混乱を不当に生じさせる恐れがある」ことを第一の理由とし、他省庁も同様だった。

これは情報公開法に定められた不開示理由の一つで、特定秘密保護法案以外でも国会提出前の法案については同様の扱いがなされている。
しかし、民主党政権が2011年4月に提出した情報公開法改正案では、この不開示理由は削除された。有識者会議で「(封建的な)『よらしむべし、知らしむべからず』を連想させる」などの意見が出たためだ。だが、改正案は昨年末の衆院解散で廃案となったため、当面は今の運用が続くとみられる。
秘密保護法案関連の公文書を数多く収集するNPO「情報公開クリアリングハウス」の三木由希子理事長は「法案の作成過程を国民が議論するのは当然であり、正当なこと。何が『不当』かを行政が主観的に決められる現行の規定は不適切だ」と指摘している。

政府は「真っ黒」に塗りつぶした文書を公開したのだ。その理由は「公にすることにより、国民の間に未成熟な情報に基づく混乱を不当に生じさせる恐れがある」とのこと。行政側の恣意的な判断で開示する情報の内容が決められてしまう。このような状況を許すこと自体が現行の情報公開制度には致命的な欠陥があることを示している。

政府は誰のためにあるのかと問いたい。政府が保有する文書は国民全体の財産である。政府や官僚だけが独占するようなことがあってはならない筈だ。

この毎日新聞の記事でも、政府が国民を如何に愚民扱いにしているかが手に取るように分かると言えよう。
 

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政府権力は、映画「大統領の陰謀」の段落で示したように、権力側に不都合なことを隠蔽するために強引な姿勢をとることが多い。政権が変わっても、政党が変わっても、時代が変わっても、この傾向は厳然と存在する。権力が持つ宿命かも知れない。このような事態は洋の東西を問わず、いつでもどこでも起きるのだ。それは歴史が証明している。そのような異常な事態を防ぐために、どこの国でも政府の透明性が今まで以上に求められているのだ。そして、多くの国が政府の透明性を高める努力をしている。

日本政府が提案する秘密保護法案が予定通りに何らの訂正や改善もなく成立した場合、今でさえも大手メデアのジャーナリズム精神の存在が危ぶまれている日本では、その存在理由に完全な止めを刺されてしまうのではないか、と私は危惧している。日本のメデアも近い将来プレステチュートになり下がってしまうのではないだろうか。

また、憲法の条文が行動規範となっている米国とはまったく異なり、日本の場合は、憲法の条文そのものが一般市民の間で行動規範として用いられることは非常に稀だ。それは、日本では、憲法が政権、政党、時代を超越した普遍的な存在ではなく、時の政権にとって都合のいい解釈によって右へ行ったり左へ行ったりするという摩訶不思議な存在になっているからであろう。非常に残念なことである。

ジャーナリストだけではなく、一般市民がものを自由に発言できないような社会になったら、あるいは、正しい情報を知ることができないような社会になったら、それは日本が100年も後退することを意味する。上述の世論調査やパブリックコメントの結果は国民の大多数がこのことを懸念しているということではないだろうか。

 

参照:

1: Seymour Hersh on Obama, NSA and the 'pathetic' American media: www.theguardian.com > ... > Investigative journalism, Sep/27/2013
2: CNN LATE EDITION WITH WOLF BLITZER, “Showdown: Iraq”: CNN, March 9, 2003 - 12:00 ET
3: 秘密保護法反対が半数超、慎重審議求める声82% 共同通信世論調査: 産経ニュース、20131027

4A Rogue Superpower: By Tom Engelhardt, Editor, TomDispatch.com, Information Clearing House, Nov/01/2013

5:セシウム検査で判明した子どもの体内被曝の深刻度: 週刊朝日、2013104日号、
http://dot.asahi.com/wa/2013092500046.html

6: 特定秘密保護法案:検討過程「まっ黒塗り」 情報公開請求に「混乱の恐れ」:毎日新聞、20131003