2015年3月20日金曜日

ウクライナにおけるロシア軍の幽霊部隊 - ロシア兵の棺が故郷へ帰還

キエフ政権やそれを後押ししている米国のオバマ政権はロシア軍によるウクライナ東部の反政府派への支援を執拗に非難しているが、ロシアのプーチン政権はかねてからロシアの正規軍はウクライナへ派遣されてはいないと言っている。

しかも、ウクライナ軍のトップさえもが最近下記のように述べた [注1]:

ウクライナのエスプレッソTVとのインタビューで、ウクライナの軍事専門家、アレクサンダー・タラン中佐はウクライナ軍のトップであるムゼンコ将軍が言いたかった内容は次のような点であると述べた。

「今までのところは、何人かのロシア軍のメンバーや不法な武装集団の一部にロシア市民が参加し、戦闘に加わっているだけである。われわれはロシアの正規軍と戦闘をしているわけではない。われわれには現在戦闘に関与している不法な武装集団と戦い、最終的に彼らを打ちのめすに十分なだけの戦力と手段が備わっている。」 


このウクライナ軍のトップが述べた内容はキエフ政府やNATOが喧伝している政治的な宣伝内容とはまったく違い、軍事専門家から見た現状をより正確に、より理性的に述べたものだと解釈される。その点で非常に興味深いし、語弊を招くかも知れないが、常識的にも頼もしい感じがした。キエフ政府の高官やNATOのトップとは違って、ウクライナにもこういう堅物がいるんだということを始めて知ることになった。


ところで、ロシア正規軍ではなく、一個人として志願してロシアから自費でウクライナ東部へやってきて、反政府軍の一部として内戦に身を投じている兵士たちは、最悪の場合、戦場で死亡する。1年近いこの内戦で、今や、戦死者の数も増えているに違いない。

そういった様子を詳しく伝えている記事 [注2] が最近見つかった。

今日はその記事を仮訳し、読者の皆さんと共有したいと思う。これを読むと、戦争の不条理を嫌と言うほど思い知らされる。米ロの政治家あるいは戦争計画者たちの見方や意見とはまったく違う、草の根の一般市民の思いにじかに接することができる。そういう意味でこの記事は非常に貴重だと思う。


<引用開始>

9月2日、朝の6時半、ロシアの第106親衛空挺師団のひとりの大尉がロシア南部のボルガ川とカザフスタンに囲まれ三角地帯を形成するサマラ地域の遠く離れた集落の郊外に到着した。彼はもう何時間も田舎道をドライブしていた。果てしなく続く白樺の林もやがては平らな農地に代わり、小さな墓地の側にある標識がポドソルネチノイエ村であることを示していた。わだちのできた道路で車は大きく揺れ、手入れが行き届かない何軒かの平屋建ての家屋を過ぎて、白煉瓦のつつましい家の前でその車は止まった。

大尉は自ら送り届けるためにウクライナとの国境に近いロストフを発って、1,400キロ以上もドライブしてきたのだ。彼が丁重に送り届けようとしていたのは亜鉛製の棺に納められた20歳の空挺隊員の死体であった。彼の名前はセルゲイ・アンドリア―ノフ。

親戚一同が外に並んで彼らを迎えた。セルゲイの兄と叔父のひとりがアングル・グラインダーを手にして一歩前へ出て、棺を開ける用意をした。彼の母ナターシャは家の中にいて、外へは出て来なかった。「私はこれは何かの間違いであることを祈っていたわ」と、彼女はヴァイス・ニュースの記者に言った。「彼を送り届けて来るのにたいそう時間がかかったんです。多分、彼は傷を負ってしまって、治療をしているに違いないと私は自分に言い聞かせていました。」 外では、男たちが何とか棺を開けた。彼女の娘の悲鳴がナターシャにも聞こえてきた。




ナターシャ・アンドリア―ノヴァは息子を任せた政府や軍隊に完全に裏切られたような気分だと言う:

写真を見ると、セルゲイは多くの場合微笑んでいて、少年のような顔立ちと穏やかな眼差しが特徴的だ。体つきはフェザー級の格闘家ように小柄で、短く刈り込んだ薄茶色の髪を持ち、目はブルーで、顎が張っていた。しかし、死体を見ると、ナターシャには自分の息子だと認識することさえも難しい程だった。彼の表情は厳しく、歪んでおり、目がかっと開いていて、ぽかんと口を開けていた。彼の顔の左側はブルーに変色し、鼻は誰かがグイッと引っ張ったかのように変な角度に曲がっていた。彼の体は泥にまみれ、爪の下にも泥が詰まっていた。セルゲイの心臓に致命的な一撃を与えた傷跡は彼のサイズには合わないだぶだぶの制服の下に隠されていた。彼の足からは一対の薄っぺらなゴム製のサンダルがぶら下がっていた。

家族は死体が到着するまで5日間も待っていた。その間、セルゲイの兄は部隊へ電話をして、弟がどのようにして戦死したのかを聞き出そうとした。当時、部隊にとってはセルゲイの兄は「やっかいな問題」となっていた。ある時点で、うんざりした将校が彼に諦めるよう忠告した。「10万ルーブル(1,850ドル)が支給される。これだけあれば十分に飲んで、彼のことを記憶にとどめるには十分だ。それ以上、いったい何を望んでいるんだ?」 しかし、ナターシャは答えが欲しかったのだ。「彼はどんなふうに亡くなったのか?」 「いったい何処で死亡したのか?」 そこで、彼女は息を継いだ。彼女の目は涙でいっぱいだった。「私の息子は逝ってしまったけど、彼がどのように死亡したのかは誰も教えてはくれないのよ…」

ナターシャはヴァイス・ニュースに彼女の息子の死体と共に受け取った書類を見せてくれた。軍の死亡証明書には手書きで「爆発による外傷」と記されている。「一片のシュラプネルが胸部を直撃し、心臓に損傷。」 その爆発が何によって引き起こされたのか、セルゲイが何処で死亡したのかは記されてはいない。軍の検死報告書によると、8月28日午前9時、ロシアの第137親衛空挺部隊に勤務するセルゲイは「一時的な配置転換」で「特別な任務」に服していた。「爆発があって、この爆発によりアンドリア―ノフ伍長は致命傷を受けて、その結果即死した。」 書類はロストフで署名され発行されてはいるのだが、どの書類を見ても、死亡場所は「一時的に配置転換された場所」というだけであった。

「これはすべてが政府の機密事項であると匂わせているみたいだわ」と、伏し目がちにナターシャは言う。彼女が再び喋りはじめた時、彼女の声は静かではあったが、決然としていた。「でも、正直言って、これは政府による犯罪だと言いたいんです。」 




ナターシャ・アンドリア―ノヴァは、息子の死体が戻ってきた時息子のセルゲイだとは見極めることもできない程だった、と言った:

関連記事: The Kremlin's Secret War: Russia's Ghost Army in Ukraine

ナターシャは今も依然として彼女の息子にいったい何が起こったのかについて情報を得ようとしている。8月中旬、彼の部隊は軍事演習のためにロストフへ送られた。彼の携帯電話は切られ、彼からの電子メールの返事は途切れてしまった。8月21日、セルゲイからナターシャに電話があった。見たこともない電話番号だった。自分は元気でいるよ、と彼女に告げた。「彼は急いでいるらしく、声を潜めて話していたわ。私は何だか不思議な感じを受けたけど、彼は心配しないで欲しいと言ってました…」 その7日後、家族には彼の死亡の知らせが届いた。

ロシアは公式には何処とも戦争をしてはいない。しかしながら、ロシアの兵隊たちは死んでいる。セルゲイは何十人、あるいは、何百人の戦死者のひとりである。ロシア軍に勤務するこれらの兵士はウクライナで戦死したものと考えられている。クレムリンはロシア軍を戦闘に送ることは否定している。国境の向こう側で起こっている紛争に直接関与することはないと主張している。しかし、セルゲイに関するストーリーは兵士の家族や人権団体の活動家、あるいは、公的な筋書きに懐疑的な政府職員たちから集められた無数の説明のうちのひとつでしかない。

これらのストーリーは公的には存在しない筈の戦争における戦死者の存在を白日の下に晒し、これらの犠牲者の責任はロシア軍の幽霊部隊に負わされるのである。

 

誰もが黙りこくっている。これが何処で起こったのかは皆がよく分かっているのだが、誰も喋ろうとはしない: 


2月の末、重武装をして階級章を付けてはいないグリーンの制服を着た男たちがクリミアに展開した。これはモスクワ政府がクリミア半島を併合するための作戦だった。いわゆる「緑の制服を着た男たち」は実際にはロシア兵ではないのかと問われて、ウラジミール・プーチン大統領は、彼らは「地元の自警団」であり、クリミア半島の店でロシア兵の制服によく似た制服を調達したのではないかと言った。

しかし、4月に全国に放映されたテレビ番組で、同大統領はクリミアを占拠し併合するためにロシア軍が配置されていたと静かに言った。プーチンの発言に合わせるかのように、親ロシア派の武装勢力はロシア皇帝の治世には「ノヴォロシア」、つまり、「新ロシア」と呼ばれていたウクライナ東部にある政府ビルを占拠した。このウクライナ東部においてもロシア軍が関与していたのかとの問いに対して、「ナンセンスだ。あそこには特殊部隊もいないし、特殊任務の兵隊や訓練のための教官もいない」と言って、プーチンは冷笑した。

たったひとつの急襲で、ロシアは23年間ウクライナの領土であった一部分について国境を書き換えてしまった。この動きは国外に憤慨や非難を巻き起こし、経済制裁や外交的な孤立を招いた。しかし、国内的には愛国心の高揚を巻き起こし、この出来事はプーチンにとってはひとつの転換点となった。彼の信任はクリミアの住民投票の後には1月の65%から一挙に80%へと跳ね上がった。経済は低迷しているにもかかわらず、プーチンの信任はさらに高まるかも知れない。

ロシア人の多くが見ているプーチンのイメージは西側と対抗することを恐れず、列強の間に自分たちの国の正当な位置を取り戻そうとする強い指導者の姿である。しかし、批評家たちは同大統領が権力を強化するためにさまざまな出来事を巧みに操っているとして非難している。「疑いもなく、プーチンはウクライナを自分の国内政治上の目標を達成するために利用している」と、モスクワの風刺作家であり著者でもあるヴィクトル・シェンデローヴィッチが言った。「彼は数年前には離任間際で指導者としての正当性を欠いていた。今や、突然、クリミアが奪還され、プーチンの信任は大きく上昇した。」 

ウクライナ東部における紛争は、当面、悪化する一方である。8月までには、ウクライナ軍は親ロ反政府派に対して攻勢を維持していた。ドネツクやルガンスクの拠点に向けて反政府派を後退させていたのだ。包囲される危険性が高まったことから、分離派はモスクワに兵力の派遣を依頼した。

ロシアは国境沿いに軍隊の増強を図り、戦闘可能な戦力を倍増し、推定で 20,000人の兵力が終結されたと報じられている。NATOや米国政府高官らが迫りくる武力侵攻を警告する中、セルゲイ・アンドリア―ノフのような兵士たちは国境に集結され、モスクワ政府はそれを軍事演習だと説明した。しかし、セルゲイのように、数多くの兵士が遺体袋に入れられて故郷に帰還することになることだろう。 


「兵士らの母親による委員会」はウクライナ紛争との関連性を公言したことから、同団体は「外国の手先」である見なされた: 

セルゲイの件は「兵士らの母親による委員会」や旧ソ連邦の崩壊以降軍人の権利を擁護してきた複数のNGOのネットワークから収集された何十件もの報告ともよく一致する。ヴァレンチーナ・メルニコーヴァは同組織を率いているが、親戚や兵士たちからの情報を引用して、ウクライナでは少なくとも500人からの兵士が戦死したと述べている。この数値は米国側の推定値とも概ね一致する。しかし、公的に確認されたリストがないことから、ロシア軍の関与がどの程度になっているのかを検証することは困難である。「ロシアが正規軍を投入していることは明らかである」と、ロシア大統領府の人権委員会のメンバーであるセルゲイ・クリヴェンコが言った。この人権委員会は半ば独立した機関であって、プーチンに諮問する。「まあ、何らかの形で彼らはこの紛争に参画してはいるけれども、その活動はすべて隠ぺいされている。」 

最初の情報は心配にかられた両親からもたらされた。ロストフで勤務している息子との連絡がとれなくなってしまったのだ。「兵士らの母親による委員会」の地方支部は軍の病院が負傷兵で満杯になっていることを報告し始めた。そして、棺が届けられた。ロシア中の村々に致命的な外傷を受けた兵士の遺体が到着し始めた。彼らの書類はどれにも兵士が亡くなった場所として「一時的な配置転換の場所」と記載されていた。

メルニコ―ヴァにとってはすべてが見え見えである。旧ソ連邦時代のアフガニスタン戦争でもそうであったように、ロシアには兵士の死者数を過小評価する歴史がある。当時、棺は真夜中に家族のもとへ送り届けられたものだ。1990年代のチェチェン戦争でもこのような行動が引き継がれた。しかし、最近は、軍部は著しい改善を行っている。説明責任を取り入れたのだ。特に平和時においてはロシア軍兵士の死亡や怪我は公的な調査を開始することになっている。「もちろん、事故によって何らかの不祥事が起きた場合は例外となるが、われわれが目にしているのは明らかに死因が戦闘時の怪我であり、それぞれが孤立した事例というわけでもない。今日まで刑事事件の調査も行われてはいない」と、クリヴェンコはヴァイス・ニュースに語った。 

これらの事柄はいずれも国営メデイアによって報道されることはなかった。ロシア市民のほとんどは国営メデイアを通じてニュースに接しているのだが… テレビ報道ではキエフ政府は「ファシスト政権」として描かれ、ウクライナ国内のロシア語を喋る市民を殺害することに躍起となっていると報道している。報道プログラムは国内からロシアに脅威を与えようとする「第5列」に関する陰謀説や戦争に反対して喋ることは売国奴に値するとして著名な作家や政治家を描写する一連のドキュメンタリーなどでいっぱいだ。


[訳注:「第5列」とはウィキぺデイアによると次にように説明されている。この表現は、スペイン内戦で反政府軍側の将軍エミリオ・モラ・ビダルが、1936年にラジオで「我々は4個軍団をマドリードに向け進軍させている。人民戦線政府が支配するマドリード市内にも我々に共鳴する5番目の軍団(第五列)が戦いを始めるだろう」と放送したことに起源がある。この単語はまた、自らが居住している国家に敵対する別の国家に忠誠を尽くすことを求められた人々や、自らが居住している国家に対して戦争のときに敵方の国家に味方する人々を指す場合にも使用される。] 

これらはすべてが恐怖に満ちた雰囲気を醸し出すことに貢献し、その恐怖心こそが特定の家族に公言することを控えさせているのである。ナターシャは自分の息子の死のまわりに漂う秘密主義によって孤独感を感じている。それは政府関係者からだけではなく、村の隣人たちからさえも感じるのである。「誰もが沈黙したままだわ」と、彼女は言う。「あれが何処で起こったのかは皆が知っているけれども、誰もそのことを喋ることは出来ないんです。」 


隠ぺいの規模や程度は思いも寄らないほどである。ウクライナ紛争でいったい何人の兵士が戦死したのかはわれわれは知らないが、その数は何百にもなるだろう。もしかするともっと多いのかも:

その沈黙の壁は8月の最後の週には崩壊し始めようとしていた。プスコフ市 [訳注:ロシア北西部の都市。エストニアとの国境に位置している] で新たに設けられた複数の墓がクレムリンとウクライナ東部における戦闘との関連性を示唆したのだ。

エストニアとの国境に近く、ザンクト・ペテルスブルグからは車で5時間の距離にあるプスコフ市はロシアではもっとも古い都市のひとつであり、タマネギ型のドームを持った教会と相俟ってもっとも美しい都市でもある。いくつかの教会は12世紀に建立されたもの。1917年にニコライ2世ロシア皇帝が誘拐されたのはこの地であった。ロシア帝国の死を予告する鐘の音が鳴り、ソ連邦が創立されたのだ。今日では、この都市は第76親衛航空急襲師団の町としてよく知られている。 

プスコフの空挺部隊は8月の始めにロストフへ配置された。兵士たちが電話やメールを書くことを中断した時、兵士の家族は非常に心配になってきた。8月21日、ウクライナの政府高官は、ルガンスク近郊での武力衝突の後、2台のロシアの装甲車両を捕獲したと発表した。また、押収した何種類もの書類の中には60人の空挺部隊員の点呼表が含まれていたと言う。これらの書類の写真がインターネットに掲載されている。 インターネットにはたくさんの偽情報が行き交っているから、このような情報は必ずしも寝耳に水の出来事とは言えない。しかし、家族の間にはパニックが起こり、この出来事は地方メデイアの関心を呼んだ。

ロシアの政府関係者は何も間違ってはいないと言い張った。翌日プスコフへ飛んだロシア空挺部隊の指揮官はこれは「言いがかり」だと言った。「われわれの航空急襲師団では全員が生存しており、皆元気だ。」 しかし、同師団出身兵士の死亡の噂が市中やインターネット上で速やかに広がった。レオニード・キチャトキン軍曹の妻が「レオニードは戦死しました」と言って、その月曜日に予定されている葬式に出席してくれるようにと友達宛ての招待状をソーシャル・メデイア上で掲載した。この掲載は間もなく撤去されたが、すでにインターネット上で拡散された後だった。

イリナ・トウナコヴァはザンクト・ペテルスブルグに拠点を置く独立ジャーナリストであるが、この葬式を取材しようとした。しかし、彼女がキチャトキンの妻に電話をすると、電話に出た女性は自分の夫は生きており、元気にしていると言い張った。「すべてが噂に過ぎないとか、誰も戦死してはいないとか、あの文書も単なるまやかしものだといった点について一篇のストーリーを書くことに自信を感じました」と、トウナコヴァはヴァイス・ニュースに語った。




プスコフの郊外にある墓地はウクライナで戦死した兵士の休息の場所となっている:

月曜日の朝、プスコフの郊外にある小さな墓地のある教会は集まった人たちで一杯になった。正装をした将校たちが外を歩き回っていた。地方の政治家であり独立した新聞を発行しているレフ・シュロッスベルグによると、「これはキチャトキンだけの葬式ではないが、その後この墓地や他の墓地に埋葬された兵士たちに対するお別れの儀式だ」と言う。

途中で道に迷ってしまったイリナ・トウナコヴァは数時間遅れて墓地に到着した。その時までには、人々はすでに墓地を後にし、何人かの兵士たちだけが新たに掘ったふたつの墓地を整地しているところだった。ひとつ目はレオニード・キチャトキン軍曹のためのもので、ふたつ目は8月20日に亡くなったアレクサンダー・オシポフの墓だった。レポーターを弔問客と勘違いして、ひとりの男性がトウナコヴァにウォッカを勧めた。「私の息子がここに居るんだ」と、オシポフの墓を指さして、彼は言った。「彼は英雄になりたかったんだ。」 彼女はキチャトキンの墓地に向かって頷きながら、「彼はウクライナで死亡したのですか」と訊ねた。「いったい他の何処で?」との返事が戻ってきた。 

8月26日、シュロッスベルグの新聞がそのストーリーを発表したことから、これはスキャンダルに発展した。師団は内部結束を高めた。兵士の家族はメデイアに対して口を閉ざしてしまった。誰かは分からない男たちが墓地で警戒に当たり、墓地に近づこうとする部外者にはアクセスを禁じた。ジャーナリストを守る委員会によると、8月26から27日にかけて、少なくとも7人のジャーナリストがこれらの不可思議な戦死を取材しようとしたが、その際に脅威を与えられたり、暴力を受けたりした。もっともひどい暴力沙汰はシュロッスベルグ自身に対するものだった。彼は誰とも知れない人物に殴打されて、病院に数週間も入院しなければならなかった。「あれは政治的な意思決定だったと思う」と、彼はヴァイス・ニュースに語った。「奴らは職業的とも思える程に暴力を振るった。単なる街のごろつきではない。奴らは何処を殴ればいいのか、どのように殴るのかを良く知っている風だった。」 

10月にヴァイス・ニュースが再訪した時には、墓地を警護する男たちはもう見当たらなかったが、辺りに漂う恐怖感は依然として残っていた。プスコフの兵士の家族は誰もが記録に残るような言動は避け、師団は質問に答えようともしなかった。でも、この状況はシュロッスベルグを驚かすことはなかった。「何が起こったのかを良く知っている人たちは喋ることを怖がっている」と、彼は言った。『彼らはこう言った。「もしもお前たちの誰かがあれはウクライナで起こったんだと言ったら、その当人とは契約を破棄して、給料の支払いを中断する。そうするとその人物は路頭に迷うことになるんだぞ!」 そして、多くの場合、兵隊という職業が唯一の収入源なのだ。』 

暴力沙汰に見舞われたにもかかわらず、シュロッスベルグの新聞は兵士らの死亡に関する報告を続けた。リークされた記録に基づいた情報も含まれており、それによると8月20日にはウクライナ軍との戦闘で80人ものプスコフからの空挺部隊員が死亡した。シュロッスベルグは軍部全体では死者数はずっと多いのではないかと推定している。「隠匿の度合いは徹底している」と彼は言う。「ウクライナでいったいどれだけの兵士が戦死したのかはわれわれは知る術もないが、その数は何百人にもなるだろう。もしかすると、それを上回るのかも…」 


もしもインターネットが無かったら、われわれは答えを見出すことはできなかっただろう: 

8月26日、シュロッスベルグがプスコフに関する報道をした日、ウクライナ政府は10人のロシア兵をウクライナ領土内で捕獲したと発表した。その日の午後、プーチンはミンスクへ飛んで、ウクライナ側の相手であるぺトロ・ポロシェンコと会った。話し合いはウクライナ東部での紛争の解決について何とか道を開こうとするものであった。ふたりの大統領がベラルースの首都で気まずそうな握手をする直前、キエフ政府は捕獲したロシア兵に対する尋問の様子をビデオで公開した。

これらの拘束された空挺部隊の隊員はコストロマ [訳注:モスクワの北東約300キロに位置している] に本拠を置く第331空挺師団に所属していた。強制された自供とも判断されるが、指揮官によって誤導されたのだと兵士らは言っている。指揮官はこれから演習に出かけると言ったが、実際には国境を越してウクライナへ送り込まれたのだと…

クレムリンはこのウクライナへの侵入を認めたが、それは間違って越境してしまったのだと釈明した。「私が聞いている限りでは、兵士らは国境をパトロールしていたが、間違ってウクライナの領土内に入ってしまった」と、ミンスクでプーチンが記者団に語った。

しかし、コストロマでは、ビデオの映像は兵士らの家族の間に嵐のような怒りを巻き起こした。「いったい何時になったらこの出来事について私たちに話してくれるのか?」と、RFE・RLとのインタビューで憤慨した母親のひとりが質問した。「一週間後?二週間後?もしもインターネットがなかったら、われわれは永久に情報を手にすることはないだろう。」 親族らは師団へ出向いて答えを要求し始めた。涙をいっぱいためた母親たちの一団が記者会見を行い、プーチンに自分たちの息子を戻してくれと懇願した。この圧力を受けて、クレムリンは10人の空挺部隊の兵士を63人のウクライナ兵と交換することにした。

これらの出来事はドミトリー・グドコフの関心を引いた。彼は野党議員であって、ロシア下院に属している。彼は、プスコフで埋葬された兵士らを含めて、ウクライナで戦死したと推測される30数人の兵士たちについて公的調査を行うことを要求した。個人情報の保護に関する法律を引き合いに出して国防省はコメントを避け、ロシア軍兵士の戦死はウクライナ政府と西側によって広げられた噂であるとして退けてしまった。「ロシア連邦はウクライナ政府軍と政府指導者に反旗を翻しているドネツクやルガンスク両州の反政府軍との間の紛争では当事者ではない」と述べた。返事の内容はこちら

当面、「兵士らの母親による委員会」のザンクト・ペテルスブルグ地方部会はこの件についてロシア政府が調査を行うよう申立書を提出した。その数日後、この地方支部は公式に「外国の手先」であるとの烙印を押された。これによって、彼らの政府に対する批判は信用できないものとされたわけである。


彼はそうするように命令されたから行動したのだ。前進せよ、軍事拠点を破壊し、さらに前進を続けよ、と:

モスクワ政府の努力にもかかわらず、膨れ上がるばかりの議論は無視することができなくなった。クレムリンの筋書きがほころびる危険性の中、事態は急変した。 

9月5日の夕刻、みっつの国営テレビがウクライナで戦死したロシア兵に関する報告を伝えた。現役の兵士の死が国営のメデイアによって報道されたのは初めてだった。視聴者は28歳の空挺部隊の隊員の葬式の様子を見せられた。彼は完璧な軍葬の礼によって葬られ、礼砲で終った。この兵士は「ウクライナでの出来事を何もせずに見過ごすことなんてできない」愛国者であったと伝えられた。三つのネットワークはすべてが彼は「志願者」であったと報道した。つまり、ウクライナへ行って、親ロ派の反政府軍と一緒に戦うことに関して彼は自分の妻にも指揮官に対しても何も言わなかったと。

メルニコーワはこの見方をこき下ろした。「いったいどうして志願者なの?ロシアの法律では一兵士にとってはそんなことはあり得ないんだから。」 休暇を取るには、ロシアの兵士は自分の指揮官に対して報告書をしたためる必要がある。休暇中に何処へ出かけるのか詳細に報告しなければならない。出国するには、そのプロセスはさらに複雑になって、自分の指揮官、国防省およびFSBの許可を得なければならない。さらには、ロシアの刑事法は自分の信念の下で外国へ出かけ、戦闘に参加することと単に金儲けのために外国での戦闘に参加することの区別はないのだ。どちらの場合にしても、彼は雇用兵と見なされ、刑務所に放り込まれるほどの犯罪である。

しかし、これらの事実は新しい物語を理解するには何の役にも立たなかった。ロシア兵たちはウクライナ東部のロシア語を話す兄弟たちとの親族のような関係によって動機付けられ、大挙して国境を越え、キエフ政府のファシストと戦うために志願したのである。




ニコライ・コズロフはウクライナの戦闘で負傷を受けた後英雄として歓迎された。彼は志願して出かけたのだと国は言うが、彼の親族は誰もがそれを否定する:

いわゆる志願兵に関する別の国営テレビの報告 が童顔の空挺部隊の隊員であったニコライ・コズロフについて報道した。彼はウクライナで待ち伏せ攻撃に遭って、脚を失った。病院の部屋で回復しつつあるニコライの映像に合わせて哀しいピアノ曲が流れ、彼の側には身ごもった妻が付き添っている。インタビューで、アフガン戦争に従軍したニコライの父親は自分の息子を自慢に思うと言った。「彼は自分の任務を最後まで果たしたのだから」と。

これはニコライは志願兵ではなかったという点を除いての話だ。「彼は命令を受けたから出かけたのだ」と、彼の叔父が言った。「前へ進め、軍事拠点を潰せ、前へ進み続けるんだ」と。

叔父のセルゲイ・コズロフは自分の甥から聞いた戦闘の様子を再び説明してくれた。彼の部隊は8月18日に国境を越えた。その6日後、部隊は待ち伏せに遭った。ニコライは茂みの中でシュルシュルと鳴る音を聞いたが、彼が地面へ伏せる前に、迫撃砲弾が彼の右脚をもぎ取ってしまった。その後起こったことについては彼は覚えてはいない。自分で止血帯を付けるのに精いっぱいだった。

セルゲイ・コズロフはヴァイス・ニュースにロストフの病院で発行された医療報告書のコピーを見せてくれた。それにはこう書いている。「撤退が不可能であるので、負傷の3日後、兵長は陸軍病院1602に収容された。」 

セルゲイ・コズロフはウクライナ紛争は彼の家族をふたつに分断してしまったと言う。

戦争は家族をバラバラにし、セルゲイとニコライの父親を引き離した。「私の兄はニコライを失うところだったが、彼は息子が祖国のために自分を犠牲にしたのだと信じている。でも、俺は祖国が彼を裏切って、犠牲にしたのだと思っているよ。」 

ニコライが国境を超えることを拒否することはできたのかという質問に、セルゲイは涙をこらえて瞬きした。「いったいどうやって?」と彼が聞き返してきた。「命令は命令なんだ。」

 

兄弟よ、安らかに眠りたまえ。呪を受けるのは君を外国の地へ送り込んだ連中だ: 

ウクライナ東部での過酷な紛争は5千人を超す犠牲者を出した。敵意はさらに拡大しているが、クレムリンの筋書きはほとんど同じままである。即ち、ロシア軍の軍事侵攻はない。侵略はない。軍事的関与なんてないのだ。そして、戦死者や負傷者ならびに行方不明者のロシアの家族は答えを待っている。

ヨーロッパのど真ん中での戦争が、2015年の今日、上辺だけの秘密の中で行われている事を想像するだけでも難しい。ウクライナでのロシア兵の存在を否定するロシアに対して、在国連米国大使のサマンサ・パワーはツイッターでこう言った。ロシアは「カメラの発明以前だったら、秘密のまま逃げおおせたかも。」 

しかし、国際的な非難の中、戦死した兵隊とカメラの発明については、少なくとも国内では、ロシアは宣戦布告のない戦争を咎められることもなくほぼ間違いなくやり過ごして来た。独立したレヴァダ・センターによって実施された12月の世論調査によれば、ロシア人の四分の一はロシアがウクライナで戦闘をしていると思っている。回答者の77%がロシアはこの流血騒ぎには何の責任もないと思うと回答した。

国際社会による厳しい経済制裁と下落した原油価格とが対ドルのルーブルの価値をその半分にも暴落させた。しかしながら、西側の政策立案家たちの予測とは違って、この状況がプーチンの立ち位置を弱めたという形跡はない。12月に公表されたAssociated Press-NORCの世論調査によると、81パーセントのロシア人は彼らの大統領を支持している。

ポドソルネチノイエ村へ戻ろう。ナターシャは今も彼女の息子の喪に服している。長椅子の端に腰を下ろして、彼女は悲しみで背中を丸めたままで、膝の上に置いた彼女の両手はそわそわしている。

「賄賂を払って、彼を軍隊へ送らないでいることも可能だった。誰だってそのことを分かってくれたと思うわ」と彼女は言った。彼女の顔は悲しみでしわくちゃになり、その後は苦痛が襲った。「でも、彼は男になりたかったんだと私は思うの。だから送り出してやったんです。」 しばらくして、こう付け加えた。「いや、兵隊の誰に対してでもロシア軍は責任を持っている筈だわ。」

ナターシャは不信と絶望の間を行ったり来たりした。ある瞬間には、彼女は軍隊と政府に対する怒りで一杯になって、こう言った。「私は国中に向かって叫びたいわ。彼が何処で殺されたかを皆に知って欲しいのよ。」 そして、次の瞬間には、不安と恐怖が彼女を襲った。「私はこの情報をあなたにあげるけど、心配だわ。皆がここへやって来るかも。誰が何のためにやって来るのかは誰も知りはしないんだから。」

セルゲイは父親の側に葬られた。広大な畑を見下ろす場所だ。そこは暑い夏にはヒマワリの花で埋め尽くされるが、ロシアの冬がやって来ると、目が届くかぎり荒涼とした土地が果てしなく続く。彼の奉仕を語るものは何もない。彼が命を捧げた戦争のことを伝えるものは何もありはしない。ナターシャは彼女の息子には「ロシアの英雄」を讃える勲章を授けて貰いたいと思っている。「戦争で亡くなった者だけが授かるのよ」と言った。「でも、戦争はしてはいないんだから…」

葬式は実に静かに終わった。公的な存在はセルゲイの遺体を家まで運んできてくれた大尉だけだった。ナターシャはウクライナで戦死した他の兵士の家族も弔意を表しにやって来たと話してくれた。彼女の打ちひしがれた姿を見て、戦死した息子を持つ父親は彼女の脇へ寄って来てこう言った。「ナターシャ、誰の言う事も聞くな。我々の息子たちは皆が英雄なんだ。立派な男たちだ」と、彼女に言った。「この思いを抱いてこれからも生きるんだ。今は静かにしていよう。」 

公の事実の承認は何も無かったけれども、それにもっとも近いと思われるものがインターネットに寄せられた。それはセルゲイの友人のひとりからのお別れのメッセージだった。こう書かれていた。「兄弟よ、安らかに眠りたまえ。呪を受けるのは君を外国の地へ送り込んだ連中だ。」

プーチンは、年末記者会見でウクライナにおけるロシア軍について質問を受けて、再びこう言った。「志願者たち… 彼らは胸中の呼び声に応えて行動しているのだ」と。しかし、セルゲイ・アンドリアノフは現役の兵隊であった。自分の指揮官の命令を受けて作戦行動をしている最中に一片のシュラプネルが彼の心臓に命中し、彼の命は奪れてしまった。 

「これは余りにもつらい。私の息子だからというだけではなく、戦死した多くの兵隊たちのことを思うと…」と、ナターシャは言った。「彼らはいったい何のために死んだのかしら。息子たちの戦死はどうして認めて貰えないのかしら。」


著者、ルーシー・カファーノフのツイッター: @LucyKafanov


<引用終了>


ここに始まりもなく終りもないナターシャの戦争の物語を見る思いがする。

ウクライナ紛争で戦死した兵士の数は本当のことはまったく分からないのが現状だ。ウクライナ政府軍もノヴォロシアの反政府軍も本当の数値を公表してはいないからだ。報道されている数値はかなり過小評価されていると言われ、実際の数値はオーダーが一桁大きいのではないかとさえ言われている。

戦争は常に理不尽である。個人のレベルでも、国家のレベルでもだ。しかも、古典的なひとつの国ともうひとつの国との間の戦争が今は「非対称戦争」とか「ハイブリッド戦争」と言われるような形態に変化している。しかし、こうした表現や呼称の問題とは違って、戦争の悲惨さは今も昔と変わりがない。一度戦争となると、戦争は市民ひとりひとりにとってはどうしようもない状況を招くのが落ちだ。上記に引用されているセルゲイ・アンドリア―ノフがいい例だ。

ウクライナ紛争については、せめて、戦死した若者たちに安息の時が与えられるよう祈り、彼らの遺族には少しでも早く自分たちの気持ちが整理出来るような政治的決着が到来することを期待したい。何と言っても、ウクライナ紛争を早期に終結させなければならない。そうさせるような英知を実践しなければならない。

ここに引用した記事は戦争が持つ理不尽さや無残さを余すことなく伝えている。個人の尊厳は国家権力の前にこうも簡単に奪われてしまう。それが戦争なのだ。



参照:

注1:Ukraine Military High Command Confirms “No Russian Invasion or Regular Troops”. Presence of NATO Forces in Donbass: By George Eliasom, Global Research, Feb/15/2015

注2:'It Is a Government Crime’: The Coffins of Russia’s Ghost Soldiers In Ukraine Are Coming Home: By Lucy Kafanov, Mar/03/2015, https://news.vice.com/article/it-is-a-government-crime-the-coffins-of-russias-ghost-soldiers-in-ukraine-are-coming-home


 

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