2015年12月11日金曜日

超高価な古ワインを鑑定するためにセシウム137を活用 (その2) 



表題の件について、先日、「その1」を掲載した。

この記事でもっとも面白いと感じた点は、幾つかある中でも、米国の超富裕階級の蒐集家がどんな気持ちや意図をもって1本の古ワインに12万ドルにもなる金をかけたのかという点だ。一言で言えば、それは周囲の人たちに自分が蒐集した稀少なワインを見せて自慢することにあったのだ。また、偽物を掴まされて怒った蒐集家は詐欺師を見つけだして、法廷へ引っ張り出すことに執着し、その当人を探し出すためにそれらの偽物古ワインを購入するのに要した額の2倍もの費用をさらにかけたという。百万ドルという金額は当の蒐集家にとってはほんのポケット・マネーに過ぎないのかも知れないが、この辺りの心理状態も非常に興味深い。

さて、さっそく、その後半 [1] に移りたいと思う。


<引用開始>

非常に勇敢な偽物作りもいる。彼らは実際にはオリジナルとはまったく別のワインに入れ替えてしまう。レストランあるいは古物商で空瓶を集め、本物のラベルが付いた本物の瓶を使い、まったく別の種類のワインまたは同種のワインを詰め替え、コルクやカプセルを取り換える。身分にこだわる買手はワインの味なんて決して分ってはいないんだという想定である。多くの場合、この想定は正しい。サットクリフの推測によると、偽物ワインの殆んどは買手を多いに喜ばせてその使命を終える。ラス・ヴェガスでレストランを経営している著名なビジネスマン、ラジャット・パールが私にこんな話をしてくれた。何でも数年前のことだそうだ。彼の顧客が1982年もののペトリュスを注文した。この銘柄はレストランでは6千ドルもの価格がついている代物だ。このお客さんたちは1本を開けて、2本目を注文した。しかし、この2本目は、はっきり言って、まったく違う味がしたので、このボトルを突っ返してきた。レストランのスタッフはお詫びの言葉を述べて、3本目を提供した。お客さんたちはこのボトルを多いに楽しみ、空にした。パールはこれらの3本を詳しく調べてみた。その結果、例の2本目は本物であることが判明したのである。 
もしも「Th.J.」ボトルが偽物であるとしたら、誰かが所有していた本物の18世紀のワインをトーマス・ジェファーソンのボトルだと称したのだろうか、それとも、ワインそのものに実際に混ぜ物をしたのだろうか、といった疑問にジム・エルロイは直面した。ブロードベントやその他のワイン通たちは、事実、何本かのジェファーソン・ボトルの味見をしており、それらのボトルは間違いなく本物だと宣言していた。もうひとりのマスター・オブ・ワインの称号を持つジャンシス・ロビンソンはファイナンシャル・タイムズでワイン関連のコラムを担当しているが、彼女は1998年のイケムの試飲会に参加し、「Th.J.」ボトルは「疑いようもなく古い」ワインであり、最初は僅かながらカビ臭い感じがあったが、その後は「偉大な古ワインが持つ奇跡」が開花し、1784年ものは「女性的なバラの香り」を漂わせ、1787年ものは「カラメルや下生えによる秋の芳香」を醸し出しているようだったと形容した。
しかし、ブロシェは私にこう言った。試飲会においては専門家たちは、往々にして、平均的なワインの愛好者に比べて自分自身の経験や憶測によってより多くの影響を受け易いとのことだ。こういった説明に対して、ハンス・ピーター・フレリックスは科学的な試験を実施して、まったく違う見解を提供した。その試験によると、彼の1787年のラフィットは瓶の中身の半分が1962年以降のワインであることが判明した。フレリックスの試験に続いて、ローデンストックはチューリッヒに住む科学者、ゲオルゲ・ボナニ博士の支援を受けて、1787年のラフィットに関して自分のために試験を行った。ボナニ博士はワインの年代測定を行い、このワインには1962年よりも若いワインはまったく混入されてはいないと断定した。こうして、彼はフレリックスが実施した研究の成果とはまったく異なる試験結果を得たのである。ローデンストックは頻繁にこのボナニの分析結果を引用して、このボトルの鑑定によって「決定的な結論」が導かれたと主張した。しかし、これらの試験が本当に決定的なものであると断定することは困難なようだ。ひとつの理由としては、それぞれ違うボトルにお互いに異なる試験法が適用されており、1本のワインから得られた結果を他のボトルの鑑定のために外挿するのは余りにも性急である。さらには、放射性炭素による年代測定は18世紀や19世紀に瓶詰されたワインの年代を特定するにはそもそも不向きであり、ボナニ博士の研究所の報告書を詳細に調べてみると、試験結果は非常に幅の広い誤差範囲を含んでいることが分かる。この試験は20世紀後半のワインが混入されてはいないことを明らかにしたのは事実であるが、このワインが1787年ものであることを示す決定的な証拠を示したわけではない。「この試験結果が示しているのはこのワインは1673年から1945年の間に製造されたものであるというだけに過ぎない」と、ボナニは最近の電子メールに書いている。
両者が行った試験結果には懐疑的な態度をとっているエルロイはフランスの物理学者であるフィリップ・ヒューベールを探し当てた。彼はボトルを開けることもなくワインの製造年代を特定する方法を考え出した人物である。ヒューベールは放射性同位元素のセシウム137137Cs)の存在を検知するために低周波ガンマ線を用いる。炭素14とは違って、137Csは自然界には存在せず、放射性降下物によって直接もたらされた物質である。大気中核実験の時代が到来する前に瓶詰されたワインには137 Csが含まれることはなく、その時期よりも古いワインでは137 Cs は検出されないのである。しかし、もしも試験されたワインが137Cs を含んでいるならば、ヒューベールはそのワインの年代に関してはさらに詳細な推測を行うことができる。
エルロイはジェファーソン・ボトルを弾丸をはじき返すだけではなく衝撃にも強い2個のケースに収めて、それらのケースを機内持ち込みの手荷物として持ち歩き、フランスへ飛んだ。(彼はこれらの物品に関して特別な「手帳」、つまり、荷物用のパスポートのような書類を準備した。これで、彼は50万ドルにも相当するワインを持って国境を越す際にも関税を支払う必要はない。ヒースロー空港で空港の警備担当者らが彼のボトルを念入りに調べた際、エルロイは無表情に振る舞って、こう言った。「機内ではいいワインは望めないもんだからね。」) 
ヒューベールとエルロイがこのワインを試験した研究所はフランスとイタリアの国境線に沿って何マイルも走るアルプスの山々の地下にある。これらのボトルは検出装置に設定され、厚さが10インチもある鉛の遮蔽版で囲まれ、この試験には1週間もかかった。
エルロイは自分たちは今やローデンストックをついに追い詰めたも同然だと確信していた。「モンティチェロからの証拠やドイツからの証拠を手にしており、私はこの人物は詐欺師であるに違いないと99パーセント確信していた」のを彼はよく記憶している。しかしながら、ヒューベールが試験を終了した時、これらのボトルからは137Csが検出されなかった、と言った。「これが1783年ものであるのか、1943年ものであるのかについてはまったく分かりません」と、ヒューベールはエルロイに言った。しかし、何れにせよ、これは大気中核実験の時期よりも若いワインではなかったのである。
「どれだけ失望したかはとても言い尽くせたもんじゃない!」と、エルロイは私に言った。「私は歴史的な証拠を手に入れていたが、詐欺師を刑事訴追しようと思ったらそれ以上の準備が必要となってきた。何か科学的な証拠、あるいは、何か別の証拠が必要だった。それが無くしてはとても起訴には持ち込めない。」  
米国へ帰る機中でエルロイは1本のボトルを取り出して、手に取ってみた。「私はカプセルや瓶を眺めていた」と彼は言った。「私は文字が刻まれている部分を手のひらでなでていた。刻まれた文字が感じられる。その時、これは工具痕跡だと思った。これは工具で刻まれたものに違いない!」 
エルロイは米国に到着すると、さっそく、バージニア州のクアンティコにあるFBIの研究所へ電話を入れた。この研究所の射撃特性の専門家たちは工具痕跡を詳しく吟味することが専門であって、銃身が弾丸の表面に残した痕跡や窓をこじ開けた際に残されたドライバーの痕跡、等を鑑識することができる。エルロイは最近退職したばかりの専門家の名前を教えて貰った。また、ニューヨーク州北部に所在するコーニング・ガラス博物館を訪れ、そこでは、オーストリア生まれで、何代もの米国大統領のために仕事をしてきたマックス・エルラッカ―というガラス彫刻の専門家を紹介して貰った。
数週間後、パームビーチのビル・コークの邸宅でボトルを詳しく調べるために、エルロイはエルラッカ―とビル・オールブレクトという名の元FBI職員で工具の専門家を雇い入れた。エルロイが知りたかったのはボトルに刻まれている文字は18世紀にガラスへの彫刻を行う際に用いられていた車輪状の銅製のリングで加工されたものであるかどうかという点であった。ジェファーソンの時代には、銅製のリングは通常足踏みのペダルで駆動され、固定された場所で回転する。つまり、彫刻師が工具の周りでボトルを移動させて彫刻を行うのである。
エルラッカ―とオールブレクトはボトルを検査し、強力な拡大鏡を用いて彫刻された部分の山の頂を詳しく調べた。銅製のリングで彫刻された文字は万年筆で書かれた文字のようにその幅が変化する傾向にある。しかし、ボトルに刻まれている文字は不思議と均一であり、銅製のリングで彫刻を施した場合にはとても起こりそうもないような傾きを持っていた。イニシアルは18世紀に刻まれたものとは思えない、とエルラッカ―は結論付けた。代わりに、これらは歯医者が使うドリルまたはドレメル工具のようなもので刻まれたものであるように見受けられた。これは「画期的な出来事だ」と、エルロイは思った。たまたま、彼はドレメル工具を自宅に備えていた。「ワインのボトルを取り出して、ボトルにドリルを当ててみましたよ」と、回想しながら彼は言った。『1時間もすれば、「Th.J.」と彫ることができるんです。』
2006831日、ビル・コークはニューヨーク連邦裁判所でローデンストック(別名マインハート・ゲルケ)に対する告訴状を提出した。これらのワインをコークに売ったのはシカゴ・ワイン・カンパニーとファー・ヴィントナ―ズではあったが、告訴状にはワインの蒐集家に対して詐欺を働こうとして「現行の悪巧み」を仕掛けたのはローデンストックであると記されている。 「ローデンストックはチャーミングで礼儀正しい」と、告訴状は彼を描写する。「しかし、彼は詐欺の名手でもある。」 
告訴状を提出する前に、(コークはこれらのボトルを直接彼から購入したわけではないことから)コークの弁護士はローデンストックがコーク所有のジェファーソン・ボトルとの繋がりを認めるのかどうか、ならびに、彼はこれらのボトルは本物だと主張して依然として詐欺を継続するのかどうかに関して興味を抱いていた。コークは、2006年の1月、ローデンストック宛に1通の手紙をファックスで送付し、自分が所有しているジェファーソン・ボトルを鑑定しようとしていることを伝え、これらのボトルはかってジェファーソンが所有していたものであることを信じる理由があることを示す手紙を書いてくれないかと依頼したのである。ローデンストックは110日に返事をしてきた。「ジェファーソン・ボトルは完全に本物であって、パリ市内の壁で塗り固められていたセラーで発見されたものだ」と述べた。彼はボトルが本物であることはクリスティーズが保証していると述べ、ボナニの報告書のコピーを同封した。「ジェファーソン・ボトルの信ぴょう性についての議論は私に関する限りはもう終わっていることをあなたは間違いなくお分かりでしょう」 とも書いている。
4月、コークはローデンストック宛てに再度手紙を書き、「うまいワインでも飲みながらどこかで二人だけでお会いしたいものだが… これらのボトルについてお話をしたいのでお好きな場所を指定してください」と申し出た。ローデンストックはこれを断った。「法的な観点からは、購入者側と販売者側は出訴期限法によって出入りを禁じられています」と、彼は書いた。 1985年にこれらのボトルを彼に売った人物はその当時60歳代であったので、もう存命してはいないかも知れない。ボトルがほんものであるかどうかという疑問は「低俗で煽情的な新聞にとっては格好のネタ」だった。この訴えが提出されると、ローデンストックは訴訟を退けるための動きを始めた。
コークの弁護士は10月にロンドンへ飛び、マイケル・ブロードベントにインタビューをした。ブロードベントは79歳となっていたが、国際的なワイン・サーキットでは依然として活動していた。ブロードベントはボトルを発見した場所を公開するようにローデンストックに何回となく頼んだと言う。しかし、彼はジェファーソン・ボトルは本物だと言い続けた。
ある意味で、ブロードベントには別の選択肢は何もなかった。何百ものワインの試飲会に関して彼が書いた記事やオークションのカタログはハーディ・ローデンストックが提供したワインに依存していた。18世紀のワインがどんな味をするのかに関して20世紀のワイン通が証言できることはひとえに古ワインの主要な提供者の一人であるローデンストックの誠実さにかかっていた。もしもローデンストックが詐欺を働いたことが暴露されたならば、ローデンストックの発見を正当なものであるとして何度となく認めてきたブロードベント自身の信頼性も崩壊することになる。Th.J.ラフィットに関してオークションの前にどうしてもっと多くの調査をしなかったのかと問われて、彼は次のように返答した。「我々は競売人だ。期限に追われているジャーナリストみたいなもんだ。私には十分な時間はなかった。」 1985年の当時、これらのボトルに関するワイン部門の見解を強化するためにクリスティーズは何らかの書き物による証拠を残さなかったのかと弁護士が質問した。ブロードベントは書きもので残すなんてまったく念頭にも浮かばなかったと答えた。「クリスティーズとの関係においては我々は皆が完璧な紳士だった」と彼は言った。
昨年の秋、米国クリスティーズのワイン部門の長を務めるリチャード・ブリアリーはウオール・ストリート・ジャーナルのジョン・ウィルキーにこう言った。彼は1985年のジェファーソン・ボトルの鑑定には参画しなかったものの、「振り返ってみると、数多くの疑問が出てくる。」 (ブリアリーの言葉は文脈から外れて引用されているとして、クリスティーズは強く反論している。) 1985年にクリスティーズの陶器部門を率いていたヒューゴ・モーリー・フレッチャーはガラスの専門家の一人であって、ブロードベントは彼にフォーブスが購入したボトルの鑑定を依頼していたと私に喋った。「当時の私の意見は、私の経験の範囲内で言うと、あれは正しかった… しかし、問題は厳密には科学とは言えない分野での活動に我々が関与していることだ。」 あのボトルは18世紀のものであると彼が判断し、ガラスに施されている彫りものも同じく18世紀のものであると判断したことを彼は説明してくれた。彫りものに関して彼が間違って判断したかも知れないという可能性は無かったのかと私が質問した時、「もちろんですとも」と彼は答え、さらに「誰でももうひとつの選択肢を用意しておかなければなりませんよね。詐欺にかかる可能性もあるのですから」と付け加えた。何回か試みたにもかかわらず、私はマイケル・ブロードベントに直接会うことは出来なかったが、クリスティーズの広報担当者は私に「ブロードベント氏が競売に出すと判断した背景は当時入手し得るすべての情報に基づいて彼が熟考した末に到達した見解であって、それを反映したものなんです。22年も経過した今になって、我々はあれこれと仮説を立てようとは思いせん」と言った。
依然として、2006年の12月に開催されたクリスティーズのニューヨークでの超高級ワインのオークションは1934年産のペトリュスを呼び物にしていた。その記述は、ブロードベントの本から引用されており、何年も前に彼が試飲していた1934年のペトリュス・インペリアルについてであった。「ハーディ・ローデンストックがどこでこれらのワインを見つけたのか私は知らない」と記している。 「端的に言って、1945年以前の生産や保管ならびに販売の記録はないのです。私が言えることは大きな瓶に入ったこのワインは大層美味であったという点です。」 コークはローデンストックが委託したのかどうかは知らなかった(クリスティーズは彼は委託をしてはいなかったと私に言った)。しかし、コークが訴訟を起こしている最中に、競売業者がローデンストックのボトルを引用するブロードベントの記述を用いてワインを販売している事実に彼は腹を立てていた。コークは競売業者に電話を掛けて、文句を言ったが、クリスティーズはオークションを続けた。そのワインは2,200ドルで競売に付された。しかし、売れなかった。
本物であったにせよ、偽物であったにせよ、これらの年月の間にローデンストックがいったい何本のワインを売ったのかは誰も知る由はない。彼の取引は多くが現金であった。(「現金で売買をした場合、納税のためにその売り上げを申告する義務はない」と彼はインタビューで述べたことがある。「20万ドルの現金は時には百万ドルの小切手よりも大きな価値があるんです!」) 売買に関与した両者を保護するために、彼は実際にどの売買を指しているのかについては言及しようとはしなかった。ジム・エルロイの考えでは、仮にボトル1本が1万ドルの価格であるとすれば、毎月10本販売したとするとローデンストックは年間で百万ドル以上を稼ぐことになる。コークがローデンストックを訴えていた時、マサチューセッツ州のソフトウェアの企業家であるラッセル・フライはカリフォルニア州のペタルーマに所在する販売業者、ワイン・ライブラリーが彼に何十本もの古ワインと一緒に偽物の19世紀のラフィットやイケムを売ったとして同社を訴えた。フライの苦情にはこう記されている。この訴訟に関わる被告人の一人は「原告が主張するボトルの多くは偽物であるか、その恐れがあり、これらは元を辿って行くとハーディ・ローデンストックに行き着くことを、最近、原告に伝えてきた。」
コークは4万本程のボトルを所有しており、3カ所のセラーでそれらを保管している。5月のある日、私はひとつのセラーを訪問した。それはケープ・コッドのオスターヴィルにある彼の邸宅の地下にあって、空調の効いた迷路のような空間の中でボトルは黒い木製ラック上に保管されていた。ジム・エルロイは二人の専門家、つまり、デイビッド・モリノ―・ベリーとビル・エドガートンと一緒にこのセラーに入って、問題のありそうなボトルを識別した。
モリノ―・ベリーはワインに関する自営コンサルタントに転身する前は何年もの間サザビーズで働いていたが、ハンス・ピーター・フレリックスから競売の申し入れがあったTh.J.ラフィットのボトルを拒んだのは彼だった。フレリックスのセラーでは、明らかに偽物であるボトルを次々と見つけだしたことがあった。蒐集家が保管する詳細な記録によると、それらのボトルは皆ハーディ・ローデンストックから入手したものであった。また、モリノ―・ベリーはローデンストックの数多くの目ざましい発見についても懐疑的であった。サザビーズからの代表として、モリノ―・ベリーは社用で頻繁にロシアを訪れていた。「私はキエフへ行き、あそこのセラーを見ました」と、彼は言った。「私はモルドバへも行き、あそこのセラーも見学しました。私は入手可能な最高の紹介状を持って出かけたのです。ローデンストックはと言うと、彼はロシアへでかけ、どこかでロシア皇帝のセラーを発見する。すべてがボルドー産… しかも、マグナムを発見した。かなりの数だ。」 [訳注:「マグナム」とは標準のボトルが750㎖であるのに対して、マグナムはその2倍の1.5リッター入り。]
頻繁に偽物が横行する1961年以前のワイン銘柄としては3000種類もあるが、モリノ―・ベリーとエドガートンはコークの蒐集品の中から約130種類もの明らかな偽物、あるいは、疑わしいボトルを選り分けた。「偽物のボトルがどういうふうに見えるか分かってきますよ」とモリノ―・ベリーは私に言った。「間違いのない偽物は際立って目につきます。」 彼らは疑わしい個々のボトルに白いラベルを付け、プロの写真家が高解像度の写真を撮った。必要とあれば裁判所へ提出することができるようにと準備をした。
幾つかの事例においては、ボトルやラベルならびにカプセルはすべてが本物のように見えるが、特定のワインの稀少性そのものが疑念を引き起こすことがある。たとえば、コークは1947年産のラフルールをマグナム・ボトルで2本も所有している。「47年もののラフルールは素晴らしい逸品です」と、モリノ―・ベリーは私に言った。しかし、彼は続けた。1947年にこのシャトーで生産されたマグナムは5本だけだったと聞いており、「その5本中の2本を彼が所有する確率というのは…」と言って、彼は疑問を投げかけた。エドガートンはオークションでの売買や価格のデータをオンラインで掲載している。1998年以降、47年もののマグナム入りのラフルールは何と19本も売られている。
サザビーズのセリーナ・サットクリフは私にこう言ったものだ。もっとも富裕な蒐集家はむしろ偽物に関しては何も知らないでいるか、偽物のことを知っている場合はそのことを公表しようとはしないかのどちらかだ。彼女は蒐集家が競売にかけたいと思っているセラーを詳しく検査したことがあったが、結局、全体あるいはその一部について競売を拒んだことがあると、何回か言っている。偽物が余りにも多かったからだった。しかし、ある蒐集家は彼女の商売敵を通じて偽物ワインを売ってしまった。蒐集家は誰も「打撃を被りたくはないんですよ」と、彼女は言った。 
「この偽物事件はローデンストックについてだけのものではなく、ずっと大きいんだ」と、コークは私に言った。「自分が蒐集したワインのすべてをつぶさに調べ終えたらその時点で私は偽物を私に売りつけた連中の全員を追求する積りだ」と私に言った。「販売業者の連中は自分たちが片棒を担いでいることを知っているんだ。皆が共謀者なんだ。」 
コークの問題となるボトルのひとつは1921年産のペトリュス・マグナムだ。彼は2005年にニューヨークのワイン販売業者、ザッキーズが開催したオークションでこのボトルを33千ドルで購入した。コークは、このワインは元々はローデンストックから出たものであると思っている。(ザッキーズはこのワインが元々はローデンストックからのものであるという証拠はないと言っている。)ロバート・パーカーが1995年にミュンヘンでローデンストックが開催した試飲会で100点を与え、「この世のものとは思えない」と評したのは1921年産のペトリュスで、別のマグナムだった。
この春、コークが所有するマグナムを生産したブドウ園で問題のワインを検査するために、ジム・エルロイはボトルをボルドーへ持参した。ペトリュスの職員は最終的にコルクの長さは誤りであり、キャップとラベルは人工的に古く見せていると結論した。このボトルが本物であるかどうかについてはペトリュスは疑いを持っていることを認めた。そして、エルロイのインタビューでセラー・マスターは1921年もののぺトリュスについてはマグナムは聞いたことがなく、この葡萄園では一本もマグナムを瓶詰したとは思わないと言った。 
これは非常に興味深い質問を招く。もしもペトリュスが1921年にはマグナムを生産しなったとしたら、ローデンストックの試飲会でパーカーが飲んだのはいったい何だったのか? パーカーの鼻には百万ドルの保険がかかっている。ローデンストックがそのような人物を自分のテーブルに招いて、偽物を振る舞うなどということはほとんど病的である。エルロイにとってはこのことはますますローデンストックが怪しいと睨むさらなる証拠となった。この種のリスクの取り方は偽物作りの間ではあり得ないことではないからだ。「私は数多くの偽物作りたちを見てきた」と、彼は言った。「何人も刑務所へ送り込んだ。連中は自分はすごく賢いと思っている。世界の誰よりも賢いんだと思っている。ローデンストックもそんなふうに感じているに違いない。」 
もしもパーカーが100点を与えた1921年産のペトリュスが偽物であったとしたら、そのような過剰とも言える自信はどこかに置き忘れたままで済まされることはないだろう。ローデンストックは偽物ワインを作ることに非常に長けており、本物と同じ位、あるいは、それ以上の味わいのあるワインを作ったというのだろうか?このボトルについてパーカーに質問をぶつけた時、最高の批評家であっても時には誤りを犯すことがあると彼は急いで言ってのけた。しかし、あのボトルは実に素晴らしかったと繰り返して言った。「あれが偽物だったとしたら、彼は腕の立つ混ぜ物師に違いない」 と、パーカーは言った。「あのボトルは実に素晴らしかった!」 
この夏の始め、ハーディ・ローデンストックはコークの訴訟に対抗するために雇っていたマンハッタンの弁護士を解雇した。公判裁判官に宛てた手紙では、ドイツ人である彼に対して裁判所は管轄権を持ってはいない、コークは彼から問題のボトルを直接購入したのではなく第三者から購入した、この訴訟は出訴期限法に基づいて差し止めるべきであると彼は述べて、異議を申し立てた。「訴訟を起こして人々を何年も縛るのがコークの趣味である」と彼は言い、自分は「そのような愚かなゲームには加わりたくはない。」 異議の申し立てをした後、「私は訴訟手続きから離脱するんだ」と宣言した。
この記事のためにローデンストックがインタビューに応じることはないだろうが、ほとんどはドイツ語で書かれている一連のファックスの中で彼は自分の無実を主張し、彼のことを「でっち上げとごまかし」と描写したコークの文言に対しては厳しく異議を唱えた。彼は自分の法律上の名前はマインハート・ゲルケであることは認めたが、自分の名前を変える人は世の中にたくさんいると主張し、ラリー・キングの名前をその事例として指摘した。ローデンストックはティナ・ヨークに対して自分はローデンストック家の一員だと言ったことは否定し、自分は先生だったと主張し続け、「それは事実だ!実証することは可能だ!」と書いた。彼がベネズエラで100箱ものボルドーを見つけたという件については、「とすると、1200本にもなるが?!?!?!」と述べて、反論した。彼が一時入居していたアパートの地下室で空瓶やラベルを発見したというアンドレアス・クラインの主張に関しては、ワイン通はワインの試飲会の後でも空き瓶を残しておくことはごく普通のことであると書いた。「私はラベルを古いボトルから剥がして、それらを額縁に入れる」と彼は言った。「こうすると、実に見栄えがいい!」 ワイン・ライブラリへのボトルの供給に関しては、言い換えれば、コークが訴訟の中で言及したペトリュスのマグナムに関しては彼は真っ向から否定し、「私の1921年もののペトリュスはいつも完璧に純粋そのものだ!!!」と主張した。彼はパーカーがくれた100点の評価を引用して、「世界でも有名な専門家があのワインを素晴らしいと評価し、可能な限りの最高点を与えている時に、あのワインが純粋であることを証明するもっといい方法がいったいどこにあるんだろうか」と問うた。
ローデンストックは2000年にクリスティーズが開催したラトゥールの試飲会でビル・コークとローデンストックが会った際についてコークが描写した文言を特に取り上げて、「私は遅刻はしなかった!!」と主張した。「私はきまり悪そうには見えてはいなかったし、彼のそばから急いで立ち去りもしなかった。私の表情は、間違いなく、ラトゥールの試飲会に対する期待感で一杯だったし、私は非常にいい気分でいた!!!」 ローデンストックに関する回想で、コークは自分はジェファーソン・ボトルを所有していると言ったが、それに対するローデンストックからの返事は「それは結構だね。けれども、それらのボトルは私から入手したわけじゃあない。」 
Th.J.ボトルが本物であるかどうかの話になると、ローデンストックは時には相矛盾するような数多くの防御策を取る。「もしもクリスティーズがその信ぴょう性に関して少しでも疑いを持っていたならば、彼らは1787年産のラフィットのボトルを受け取らなかっただろう」と彼は書いた。 「したがって、私は非難の的にはならない!」 イニシャルに関するコークの解析は科学者によって成されたものではなく、コークの友人である「素人彫刻家」によって成されたもので、彼らが下した結論は金で買われたものである、と彼は示唆した。しかし、裁判所への彼の手紙では、イニシアルは確かに現代風であることを受け入れたが、彼にワインを売った人物が「古い彫りものが読みにくくなっていたので新たに上から彫り直したのではないか」との仮説を持ち出して来た。また、彼はコーク自身または彼のスタッフが再度彫刻をしたのではないかとも提言した。「これらのボトルには20年間にさまざなことが起こった可能性がある!!!」とも付け加えた。(ハンス・ピーター・フレリックスが彼のジェファーソン・ボトルについて訴訟を起こした時、ローデンストックはこれらと同様の主張をして、フレリックスはローデンストックを陥れるために自分のボトルに混ぜ物をしたのだと言った。)
814日、公判前の手続きを監督する治安判事は、ローデンストックが裁判に出頭しようとはしなかったので、ローデンストックには欠席裁判を実施するよう推奨した。公判裁判官は、今、ローデンストックのさまざまな手続き上の防御策を受け入れるかどうかを決定しなければならない。しかし、たとえ欠席裁判が行われようとも、ドイツの裁判所は裁判を遂行しないだろうとローデンストックは主張した。 
その一方で、ジム・エルロイは自分が発見したさまざまな事柄を当局へ提出し、証拠を聴取するために大陪審が招集され、FBIはワインの蒐集家や販売業者ならびに競売業者に対して召喚状を発した。「業界の全体に対するご挨拶の効果があるだろう」とコークは私に言った。「もしも裁判官が技術的な理由からこの訴訟を放り出すとすれば、私にはさらに5件について訴える用意がある。」 
パームビーチのワインセラーの奥では、何列にも並んだ貴重なボトルの前を通り過ぎ、優雅な風情を見せる鋳鉄製のグリルの背後には収納スペースがあって、そこにはコークのもっとも古いボトルが収まっているのだが、今や、その多くは「偽物に違いない」と彼は思っている。私は1787年もののTh.J.ラフィットのボトルを取り上げてみた。手にすると、それは冷たく、驚くほど重く感じられた。そして、刻まれた文字を指で辿ってみた。稀少な古ワインに対する皆の情熱が蒐集家や批評家ならびに競売人をこのイニシャルに関しては在りそうもないことについてさえもめくらにしてしまったのだろうか? ジェファーソンは1790年の手紙で彼のワインとジョージ・ワシントンのワインのそれぞれにマークをしてくれと頼んでいるが、間違いなく、彼は箱に記載するようにと言っているのであって、個々のボトルについて言っているわけではない。
コークは1989年もののモンラッシェを開栓し、我々は階上へ歩いていき、彼のカウボーイルームにある心地よさそうな革を張った椅子に身を沈めた。このワインは生き生きしていて、ミネラル分が豊富な感じがした。味はすごく良かった。我々は訴訟について話合った。コークは何だか圧迫を感じているかのように見えた。彼は自分自身をローデンストックと偽物ワインに関する法廷闘争に放り込んでいるが、それは、言わば、ワインの蒐集に注ぎ込んだ熱中ぶりと同種のものである。「私はトーマス・ジェファーソンのワインを持っていることを自慢していたものだ」と彼は言った。「でも、今は、私は偽物のトーマス・ジェファーソンのワインを持っていることを自慢するようになった。」 
屋外では、太陽が沈もうとしている。コークの料理長がやって来て、「夕食はソフトシェル・クラブと鹿肉です」と伝えた。コークは彼が蒐集したワインのすべてを網羅する分厚いセラー台帳のページを開いて、私に見せてくれた。階上では、彼の子供の一人がバスケットボールを練習しているようだ。ブリジット・ルーニーが二人の間にできた一歳になったばかりの娘のケイトリンを抱いて、部屋へ入って来た。「私らは今偽物ワインの話をしているんだけど、話に加わるかい?」とコークが声をかけた。
ルー二ーはコークの側に座った。彼女は大粒の真珠のネックレスを身に付けていたが、ケイトリンが真珠をしゃぶっていることには気が付いてはいないようだった。彼女はコークのグラスに手を伸ばして、ひと口飲んだ。
「うーん」と彼女は小声で言った。「これは偽物じゃないわよ!」 
<引用終了>


結局のところ、偽物ワインに関するローデンストックに対するコークの法廷での争いは、ローデンストックがドイツ人であって、ドイツに住んでいることから、米国の裁判所の管轄権はローデンストックには及ばないとの判断が下されて、この訴訟はニューヨーク地裁によって不起訴処分となった。ニューヨーク地裁で所謂ジェファーソン・ボトルの件を担当するバーバラ・S・ジョーンズ判事は同地裁は被告に対して管轄権を有しないと裁定したのである [2]

ローデンストックは上記の理由や他の理由からこの訴訟を却下するように裁判所に申し立てていた。
ジョーンズ判事はコークは被告のローデンストックがニューヨーク州内で特定の目的を持って活動をしたという事実を十分には証明していないと裁定したのである。
しかし、コークが開始した偽物高級ワインに対する訴訟はコーク自身の個人的な争いの色彩を強めて、さらに続いた。不発に終わったローデンストックに対する訴訟の後、他にもいくつかの訴訟が続いた。最近の報告によると、コークは複数の訴訟で勝訴している [3]

この最新情報によると、2013年の4月、被告はコークに対して12百万ドルの懲罰的損害賠償を含めて12.4百万ドルの賠償金を支払うよう陪審員が裁定した。これは2005年にザッキーズのオークションで仲間のワイン通であるグリーンバーグが偽物であることを知りながら24本のボトルを売りつけたとしてコークが起訴していたものだ。しかし、後に、この賠償金額は裁判官によって減額され、711,622ドルの懲罰的賠償金を含む1.15百万ドルで決着した。

疑惑を招いたワインには1811年もののシャトー・ラフィット・ロートシルト、シャトー・ラトールの1864年ものと1865年もの、ならびに、1921年もののペトリュス・マグナムが含まれている。
ロイターの報告によると、ニューヨークの第二巡回控訴裁判所の判事は30でグリーンバーグによる控訴を却下した。
コークの弁護士であるムイズ・カーバはロイターズにこう述べた。「この裁定はオークション市場に横行する偽物ワインが引き起こす問題に対するコーク氏の長年にわたる戦いを正当に認めるものであり、関係者の責任を問うものです。」 
偽物高級ワインに対して個人的な戦いを挑んでいたコークは、昨年、偽物作りのルディ・クル二アワンとは3百万ドルの賠償金で決着をつけた。彼はクル二アワンの裁判で証言台に立った。クル二アワンは偽物ワインを作ったことで10年の刑を言い渡された。

以上で、偽物超高級ワインに関するビル・コークの話は一応の決着を見ました。

我々庶民にとっては手が届かない世界であるわけですが、希少な古ワインに対する情熱は一部のひとたちには予想もできないような事態を引き起こしてしまうようです。特に、ビジネスが絡んで来ると、人の倫理観は時には思わぬ脆弱さを示ことがあると言えましょう。


参照:

1The Jefferson Bottles: By Patrick Radden Keefe, The New Yorker, Sep/03/2007

2‘Jefferson Bottles’ lawsuit thrown out: By Howard G. Goldberg, Decanter, Jan/17/2008

3 Billionaire Bill Lock wins appeal over fake wine: By Richard Woodard, Decanter, Oct/01/2015



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