2017年5月31日水曜日

マンチェスターで起こった自爆テロ事件 - 英国はアルカエダとの関係を持つマンチェスター在住のイスラム過激派がリビアへ旅行し、カダフィ政権と戦うことに手助けをしていた



植民地政策では、多くの場合、植民地の住民を統治するためには、多かれ少なかれ、暴力を伴う。日本の場合も韓国や中国における植民地経営においてはさまざまな形で暴力があったということは容易に想像できる。そして、この構図は至る所で見られた。どうしてそうなってしまうのかと言うと、それは植民地経営が相互共存に主眼を置くのではなく、一方的な富の収奪にあるからだ。

一方的な富の収奪に依存する社会では貧富の差が拡大し、教育機会には不均等が生じる。その結果、このような不公平な社会の内部では軋轢が一段と増加する。こうして、富の分け前にありつくことができず、最低限の人間的な権利さえをも手にする機会に恵まれずに社会の片隅に押しやられた市民の間では支配者に対する敵意が醸成される。

このような現実は国家対国家の関係においても、一国の内部においても起こる。ほんの僅かでも歴史を振り返ってみると、数多くの事例をさまざまな形で観察することが可能だ。

こうした植民地政策が持つマイナスの面をあれこれと考えてみると、植民地政策に長い歴史を持つ欧州で、またもや、悲惨なテロが起こったという事実はかなりの必然性を示唆していると思えてならない。

522日、英国のマンチェスターで起こった自爆テロ事件に関しては、時間の経過と共にさまざまな側面が報道されている。当初は単独犯であるかのような報道があった。しかし、実際には、おどろおどろしいグループによる組織的な動きが背景に浮かび上がって来ている。しかも、国家組織によるテロ集団との関係や英国の長い植民地政策の歴史によって醸成された社会的環境が徐々に公衆の目に曝されようとしている。

さまざまな情報の中のひとつとして、525日の記事 [1] をご紹介してみたいと思う。大手メディアだけを読んでいては掴めないような要素をたとえひとつでも読者の皆さんに発見していただければ、当ブログとしては嬉しい限りである。


<引用開始>



Photo-1

英国政府は門戸開放政策をとった。Middle East Eyeが報道しているように、何人かは反テロリズム政策に基づく規制命令を受けることになったとは言え、この政策こそがリビアからの亡命者やリビア系英国市民がムアンマル・カダフィ政権を打倒した2011年の蜂起に参加することを可能としたのである。[訳注: Middle East Eyeは中東に主眼を置いたオンラインのニュース・サイトで、大手メディアにも注目されている。「MEE」という短縮形の表示が用いられている。MEEのウェブサイトは20142月に設立され、独立系の組織である。]

かっては反政府派武装勢力の一員であった連中が何人か英国へ戻ってきた。目下、当局がマンチェスターでこの月曜日に22人もの死者を出すテロ攻撃をもたらしたリビア系英国市民の背景を捜査している最中ではあるが、MEEは「彼らはリビアへ旅行し、何も問いただされることもなかった」といった事実を見い出した。

サルマン・アベディ(22歳)は反政府派の亡命者の息子として英国で生まれた。反カダフィの決意が高まり、彼はリビアへ渡った。2011年に彼は北アフリカの両親の祖国で時を過ごしたことが知られている。それ以降、彼は何回か同国を訪れている。

英国の警察が述べたところによると、このテロ事件の数日前にマンチェスターへ戻って来て、自爆テロを起こしたこの人物は犯行のネットワークのごく一部に過ぎず、月曜日(522日)以降、6人が逮捕され、その中にはアベディの兄も含まれているという。

アンバー・ラッド内務大臣はアベディは公安部門には知られた存在であったと述べ、地域社会の職員によると、何人かが反テロ・ホットラインを通じて警察へ通報して来たとBBCに喋っている。

水曜日(524日)には、革命後のリビアへ戻っていたアベディの弟と父親のふたりも、月曜日の自爆テロに関して犯行声明を出していたイスラム国(IS)との関係があったことを理由に逮捕された、とトリポリの当局は発表している。

MEEが話をした情報提供者は、英国政府はカダフィ政府と戦うことを切望するリビアからの亡命者や英国生まれのリビア系住民や市民らを手助けしていたと仄めかしている。そういった対象者の中には潜在的には治安上の脅威となりそうな者さえもが含まれていた。



Photo-2: マンチェスタ-自爆テロの犯人。2011年、リビアにて。 

 
何らの質問も受けなかった:

リビア系英国市民であって、イラクで武装勢力に参画する恐れがあったことから規制命令(実質的には、自宅監禁みたいなもの)を受けていたある人物は、自分に対する規制命令が解かれた後、暫くして、2011年にはリビアで戦うために同国へ旅行することができたこと自体に「衝撃」を覚えたと言っている。

「俺はリビアへ旅行することが許され、何の質問も受けなかった」とこの情報提供者は言った。この人物は匿名を希望して、実名を明かさなかった。

彼はイーストロンドンからやって来た何人かの他の英国生まれのリビア人に会ったことがある。英国やフランスならびに米国によるカダフィに対する戦争が激しくなり、米国による空爆が激化し、反政府派を支援するための特殊部隊を投入していた2011年には、彼らに対する規制命令は解かれた、と彼は言う。

「彼らはパスポートを持ってはいなかったので、偽造パスポートを手に入れたり、密入国をする手立てを模索していた」と、この情報提供者は言った。

しかしながら、彼らの規制命令が解かれて何日か経つと、英国当局は彼らにパスポートを戻してくれた、と彼は言う。

「連中はLIFGの古いメンバーだった。英国当局は連中が何をしていたかは良く分かっていた」と、リビア・イスラム戦闘集団(LIFG)を指して、彼は言った。この集団はアフガニスタンでソ連軍と戦ったリビア人の兵士たちで構成され、1990年に結成された。英国政府はこの集団はアルカエダと関係を持つテロ組織であると判断している。

もう一人の英国市民であり、リビアへ出かけたベラル・ヨウニスは、2011年の始め、リビアを訪問し英国へ帰国した際、彼が「スケジュール7」というカウンター・テロリズムの委任状の下でどのように拘束されたのかについていろいろと喋ってくれた。警察や入国管理事務所の職員は、「スケジュール7」に基づいて、テロに関わっているのかどうかを判断するために港や空港の国境警備地点を通過する市民に対して誰にでも質問をすることができる。

彼はこう言った。彼は英国の国内治安を掌握する部署、「MI5」の諜報関係の係官から質問され、「君は戦場へ出かけたいかね?」と尋ねられた。

彼はMEEに次のように喋った。「俺は答えを見つけるために時間をかけたが、係官は俺に向かって、カダフィを相手に戦ってくれる連中は英国政府にとっては何の問題もないんだと言った。」 


旅行はMI5によって「取捨選択」されている: 

5月に彼がリビアへ旅行しようとしていた時、出発ロビーでふたりのカウンターテロリズムの係官が彼に近づいて来て、「戦闘に参加すると犯罪を犯すことになるんだよ」と彼に警告した。

しかし、MI5の係官の名前と電話番号を彼らに告げ、その担当係官に電話をすると、彼らは私に手を振って立ち去り、この警告は終わった。

搭乗を待っているとMI5が彼に電話をして来て、「問題は解決したよ」と言った。

彼はMEEに「英国政府はリビアへ旅行する者に対しては何の障害も設けようとはしなかった」と言った。

「これらのリビア系英国人の殆んどは20歳代後半だった。何人かは18歳とか19歳ではあったが。英国から出かけた連中のほとんどはマンチェスターの出身だ。」 

しかし、彼はアベデイが当時たった16歳であったことから、彼が戦士として訓練を受けたとは思えないと言う。

「俺が一緒に戦いをしていた連中は16歳の少年を前線に立たせるようなことなんてしないよ。」 

リビアとシリアの両国で反政府派武装勢力と一緒に戦闘をしていたことがある別の英国市民も英国から出国し、英国へ帰って来ることについては何の問題もなかったとMEEに喋っている。

「何の質問も受けはしなかった」と彼は言う。 

これらの戦士たちはほとんどがチュニジアへ飛び、そこからリビアとの国境を通過した。また、別の者はマルタ経由を選んだ、と彼は言った。

「海外に離散したリビア人たちは皆が反政府派武装勢力と一緒になって戦った」と彼は付け加えた。 

匿名を希望する別のマンチェスター出身のリビア系英国人のひとりは2011年の革命騒ぎの最中に人道支援活動に参加するために何回もリビアへ旅行をしたと言う。

「リビアへ出かけるのを妨げられたことはないし、帰国を止められたこともない」と彼は言った。

その男が言うには、彼は近所のディスバリー地区のモスクでサルマン・アベディとばったり出遭ったことがあるが、アベディは「控え目」で、地域社会で活動するようなメンバーではなかったと言う。

「彼の家族は元々はトリポリの出身であったことから、リビアへ戻ったんだ」と彼は言った。

「自分の家族が自分から離れてしまうと、帰属意識が薄れて行くと思う。マンチェスターに住んでいるわれわれリビア人にとってはね・・・ 彼らは俺たちが知っているということを暗に伝えようとしている。彼はあくまでもひとりの個人であって、われわれとは何の関係もない。」 
アベディのことを知っている他の人物は彼のことを小犯罪をすることで名が知られており、「何も考えずに行動してしまう性急な男だ」と評していた。

「昨日はヤクの売人で、今日はイスラム教徒」と彼は言った。そして、アベディは2014年にシリアで殺害されたイスラム国のために兵員募集係を務めていたディズバリー出身のアニル・カリル・ラオウフィとも友人関係にあった。


SASによるエリートの訓練:

MEEが話をした元戦士のひとりはカダフィ政権が崩壊し、201110月にカダフィが殺害されることになる前、何カ月にもわたって反政府武装勢力のために「PRの仕事」をしていたと言う。彼は当時の様子を語ってくれた。

ベンガジで英国陸軍特殊空挺部隊(SAS)およびアイルランド特殊部隊の元傭兵によって訓練を受けているリビア人反政府派武装勢力の様子を紹介するビデオを編集するために、彼は雇用されたのである。反カダフィの蜂起が始まったのはこの東部の町、ベンガジからだ。

「それはアラブの歌を添えた安物のビデオではなく、洗練された、プロフェッショナルな高級フィルムであって、SASによってエリート訓練を受ける兵士たちに対する支援を要請するためにカタール人や首長国連邦の人たちに見て貰うよう準備されたものであった。」 

また、彼は反政府派武装勢力の司令官たちから若いリビア人にカメラの使い方を訓練するようにと頼まれた。国際的なメディアに対して一連の写真を売れるようにするためだった。

ミスラータの学校に設けられた武装勢力のベースキャンプで仕事をしていた時、彼は8名程の若いリビア系英国人のグループに出遭った。彼らが北部の訛りを持っていることについてひとしきり冗談を言ってから、彼らは今回初めてリビアへやって来たことを彼は知ることができた。
「彼らは1718歳位に見え、どう見たってせいぜい20歳止まりだった。彼らは正真正銘のマンチェスター訛りを持っていた」と彼は言う。「彼らはあの地に住みながら戦闘に加わり、何でもやった。」 

英国に在住し、LIFGとの関係を持つリビア人の亡命者の多くは規制命令の下に置かれ、英国とリビアとの政府間の和解後もその条項にしたがって監視を受けた。この和解は2004年に当時の英国首相であるトム・ブレア―とカダフィとの間で締結された。

2011年にカダフィ政権が崩壊すると、リビア諜報機関のオフィスはくまなく捜索された。発見された文書によれば、英国の治安警察は取り決めの一部条項にしたがって英国に在住するリビア人の反体制派を厳重に取り締まり、LIFGのふたりの上級幹部であるアブデル・ハキム・ベルハジとサミ・アルサーディをトリポリに送還した。ふたりはトリポリで拷問を受けたと主張している。

後に、ベルハジはリビアへ戻り、反カダフィの武力蜂起では指導的な役割を担った。そして、もうひとりのリビアからの亡命者は英国で規制命令の下に置かれたが、その後、リビアを訪問する高位高官を警護する任についた。MEEが理解するところでは、たとえば、デイビッド・キャメロン英国首相、ニコラス・サルコジ仏大統領、ヒラリー・クリントン米国務長官、等だ。


革命が始まると、状況は一変した: 

英国への亡命を認められたLIFGのメンバー、ズィアド・ハシェムは2015にこう述べている。 彼は告訴もなしに18か月間も刑務所に放り込まれていたが、その後、彼の推測によれば、リビア諜報機関から与えられた情報によってさらに3年間自宅監禁となった。

しかし、彼はこう言う。「革命が始まると、英国では状況が一変した。私に対する彼らの話し方や私に対する遇し方ががらっと変わった。彼らは私に社会福祉手当を支給し、永住権また
は市民権さえをも提示して来たんだ。」 

規制命令は2005年に起こったロンドン爆破事件の後に起草されたカウンターテロリズム法の一部として導入された。

これらの法令に基づいて、当局はテロ関連の活動に従事していると見られる市民の活動を一日当たり最大で16時間にわたって自宅監禁を命令することによって彼らの活動を制限することが可能だ。彼らには電子タグが装着され、電話やインターネットへのアクセスが制限され、懸念の対象となる市民との会合や通信は禁止される。

少なくとも50人がこの処置を受け、少なくとも12人のリビア人亡命者が含まれている。

規制命令は、2011年に、「テロ防止・捜査対策」(TPIMs)によって置き換えられ、この新しい手法においても当局はさまざまな同様の規制策を課すことが可能であって、その期間は2年間とされた。

内務省は「個々の案件に関してはコメントをしない」とMEEに説明した。同省はTPIMsは告訴することも祖国へ送還することもできないようなテロの容疑者を扱うものであって、堅牢で効果的な策であると言う。

規制命令からTPIMsへ移行する際、国家の公安を維持することを確実にするために、2011年に警察や内務省および保安局(MI5)を含めてさまざまな整備が実施された。

出典: Middle East Eye

<引用終了>


これで仮訳は終了した。

自爆テロの容疑者は当初政府筋が主張しようとした単独犯ではなかった。それどころか、今回のマンチェスターでのテロ事件を契機にして、英国政府がリビアへ介入するためにMI5を動員し、反カダフィ派の行動をさまざまな形で支援して来た長い歴史が図らずも判明することになった。今回のマンチェスターでのテロ事件によって、そうした背景があからさまに暴露されたのである。


♞  ♞  ♞

527日にカナダに本拠を置くGlobal Researchから発行された記事 [2] によると、こうだ。その一部を下記に掲載してみよう(斜体の部分)。

月曜日にマンチェスターで起こった自爆テロでは22人もの犠牲者が出たが、英国の諜報機関はその犯人であるサルマン・アベディについては事前に知識を持っていた。今回、その詳細が浮かび上がって来た。

今回のテロ事件に至るアベディの人脈や旅行の動きが分かった今、彼がどうして長い間逃避行を続けることができたのかを説明する唯一の理由は中東で極悪な作戦を行うために英国や米国によって活用されている工作員ネットワークの一部として彼が保護される身分にあったからだ。

英国が進めようとしていた自爆テロに関する捜査について米国がその情報をリークしてしまい、これがテレサ・メイ首相を激怒させたが、彼女を激怒させたのはこれらの捜査が暴露されてしまったからである。これらの情報をリークした具体的な理由が何であったとしても、英当局が当初発表した、アベディは「一匹オオカミ」であって、彼はまったく知られてはいなかったとする説明は完全に葬り去られたのである。

・・・


こうした事件の際には、多くの場合、当局は事前に何らかの情報をすでに持っていたことが、遅かれ早かれ、判明する。しかしながら、何らかの事件が起こらない限り、予防的な措置はとろうともしないのが常であるようだ。ひとつには人不足が挙げられようか。

政府側が演じるもっとも大きくて、かなり頻繁に引き起こす醜態は情報を隠ぺいしようとしても何らかの理由でその情報が暴露されてしまう場合だ。マンチェスター自爆テロ事件においては、その第1幕では、英国政府が単独犯説を持ち出した。しかし、第2幕では、米国が情報をリークしたことによって、英国のこの筋書きは完全に崩れ、まったく別の、政府にとっては非常に不都合な状況が現出することになったのである。

政府の嘘が判明した場合、政治的には大打撃である。政府の信頼性はあっと言う間に失墜してしまう。




参照:

1UK Facilitated the Travel of Manchester Qaeda-Linked Islamists to Libya to Fight Gaddafi: By, Amanda Thomas-Johnsn and Simon Hooper, RUSSIA INSIDER, May/25/2017

2Manchester Bombing: The Uncomfortable Truth. Abedi is Not an “Unprotected Lone Wolf”…: By Robert Stevens, Global Research, May/27/2017